ことばの錯覚

拮抗する複数の住人のための覚書(小鷹研理)

『Merge Nodes』(Joe Hamilton、2016) [2 / N]

ディスプレイ内部に醸成される「過剰な現実」

 はじめに、ある空間の放つ訴求力について

下の8つの画像(S1 - S8)は、Joe Hamiltonの『Merge Nodes』の約3分間の時間の中でも、個人的に、体感として最も直接的に強く"えぐられた"と感じた場面の時間推移に対応するものである。

 

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Eight screenshots from『Merge Nodes』in 2:00-2:07

このシーンでは、何の変哲も無い岩山の映像の一部が、パネル状に段階的に切り取られていき、その切り取られた矩形から、紫陽花の瑞々しい群集の空間の全貌が次第に露わになっていくというものである。ここでの体験のエグさは、まず何よりも、「画面の奥へと一気に空間が開けていく感じ」のリアリティーの強さにある。加えて、そのような空間性に関わる感覚に付帯するものとして、切り取られた矩形の奥へと片手を突っ込み、その隙間からのぞく乱舞する草花の感触を無造作にまさぐろうとするような、潜在的な行為に対する確かな予感がある。これらが総体として、紫陽花の空間が放つ瞬発的な訴求力を支えている。

ここで適用されているトランジッションの手法自体は映像編集としてそれほど目新しいものであるとは思えないし、そもそも、作品全体を見渡してみると、この紫陽花のシーンとほぼ同じトランジションを適用している場面は、複数見つけることができる。しかし、それら他の場面では、紫陽花の空間に対して得られたような特別な体感は生まれていないように思える(近いと感じるものはあるが)。なぜだろう。


射抜かれた平板な空間、その先に開かれる時限付きの奥行き

以下、必要に応じて、剥がされる側の岩山の空間を(空間P)、剥がれた先に露わとなる紫陽花の空間を(空間Q)と記す。

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(空間P)と(空間Q)

前記事で提起した概念である「主空間」(特定の時点において観測者の身体イメージが定位されることの許された、唯一の空間の座)をここでも援用すると、岩山の映像がパネル状に剥がれていく過程で、(空間P)が主空間である状態から、(空間Q)が主空間である状態へと時間的に遷移していることは間違いない。ただ、このような遷移自体は、どのような空間の組み合わせにおいても等しく生じるわけで、むしろ重要なのは、この主空間の主観的認知に関わる時間的カーブの性急さである。具体的には、問題となるこのシーンでは、こうした主空間の切り替えが、画角全体に対する(空間Q)の面積の配分増に応じて徐々に進行するというのではない、という点に注目したい。実際、まだ二、三のパネルが剥がれただけの(S1-S2の近辺)、割合としては画角全体の10%ほどを充填できているに過ぎない条件下で、しかし、そうした(空間P)に穿たれたわずかな切れ目から、(空間Q)は、自らに与えられるべき主空間に対する有資格性を、性急に主張してくるのである。端的に言って、この(空間Q)の訴求力の大きさは、面積の配分比から期待されるものとしてはあまりに不釣り合いである。 

さらに重要なことには、この(空間Q)の訴求力は、画角全体を紫陽花の絵が占めるようになるとき(S6の近辺)、つまり(空間Q)が、他の空間からの邪魔を一切受けることなく主空間の座に落ち着いた段階で、むしろ消失してしまうのである。その後、紫陽花の絵が、別の空間によって再び覆い隠されていく際にも(S7-S8)、例の訴求力は依然として失われたままである。つまり、この場面における「エグさ」は、(空間P)から(空間Q)へと主空間が移譲される過渡的状態において、時限的に醸成されているものなのだ。実際、紫陽花の空間の胸のすくような奥行き感は、紫陽花が画角全体を占めるようになると消失し、一枚のポスターのような平板な印象に切り替わる。そして、この種の「平板さ」とは、当初、パネル状に剥がれていく(空間P)に対して抱いていたものと、実は、ほとんど同じものである。

以上の二つの問題系は、半ば独立しつつ、半ば絡み合っている。すなわち、部分的に穿たれた穴から控えめに露出されることが、むしろ訴求性を高めるような空間としての性質を(空間Q)が備えている、そのような理路が働いていると考えたい。どういうことか。(空間Q)には、花弁・葉・茎の無数の折り重なりがあり、その節々に、長く伸びる棒が貫通できるような(あるいは、長い棒を貫通させたくなるような)空隙が至るところに存在する。例えば、誰某が、そんな紫陽花の群集のある表面にぐっと視点を寄せるようなことがあったならば、不可避的に、その奥へと分け入りたくなる衝動、あるいはその奥に何があるかを見定めたくなる衝動に駆られるだろう。この種の衝動は、動物一般の認知的な諸原則(e.x. アフォーダンス)として規定され得るものである。そして、(空間P)の部分的な剥がれ、および(空間Q)の部分的な露出は、(この二つの事象が正しく時間的に同期して生じることで)そのような衝動を極大的に増強するのである。それは例えば、、、映像を見るものの視線が、平板化した(空間P)の一つのパネルを、まるでピッチャー用の的当ての1つのパネルを目標とするような要領で射抜き、その射抜かれた矩形の空白から、さらにその先の紫陽花の群集間の入り乱れたわずかな隙間を、多少の葉片や花弁を遠慮なく切り落としながらもするすると抜け、そのさらに向こう側にまで到達していこうとするかのようでもある。そして、これまで暗黙の前提としてきた、「(空間P)に(空間Q)が貼られる」ではなく「(空間P)が剥がれて(空間Q)が現れる」という印象が優位となる理由についても、このような連想との親和性から説明できる。 


ディスプレイ空間にも物理空間にも収まらない、失われた奥行きの正体

この紫陽花の場面を適当なディスプレイ上で、全画面表示モードで再生しているとしよう。(空間P)であれ(空間Q)であれ、それらがディスプレイと視聴者の関係の中で主空間として作用している時、その空間は主観的な水準で奥行きを生み出していることになる。ところで、S1-S4の辺りで(空間Q)に感じられていた特別な奥行き感は、(空間Q)が主空間に昇格することによって(S6近辺)、むしろ失われるのだと先に指摘した。無論、S6にも素朴な意味で奥行きは存在する。この点については強調しても強調しすぎることはない。しかし、S1〜S4で感じられていた奥行き感と、S6で感じられる奥行き感は、もはや別のものである。ここで失われた奥行きとは何だろうか。

前記事の「奥行きの階層性」の議論を引き継ぐならば、現実の物理空間で感じられる奥行きと、ディスプレイ空間の中で感じられる奥行きは、相互に階層的な関係にある。すなわち、ディスプレイ空間における空間性は、奥行きのある物理空間の中で規定される平板な支持体の面に沿って展開されるものであり、この(一つ上の階層にある物理空間上の)支持体の存在を半ば「忘れる」ことによって、ディスプレイ空間は観測者にとっての主空間へと昇格する。この意味で、S6で感じられる奥行き感は、以上で示した通常の意味でのディスプレイ空間の奥行きに対応していることがわかる。としてみるならば、(空間Q)が主空間となる過程で失ったものは、(ディスプレイを主とするような)主空間としての奥行きではなく、その一つ上の階層であるところの物理空間としての奥行きなのだとは考えられないか。

実際、S1から S4の遷移において(空間P)は平板化し、まるでポスターのようなペラペラな素材であるかのような印象を与えるようになる。この「平板さ」とはまさに、主空間から締め出された映像の平面的な土台として作用する「透明な支持体」に対する質感のことであり(前記事を参照)、この想像上の「透明な支持体」が、ディスプレイの「物理的な支持体」と位相的に重なることで、「透明な支持体」の射抜かれた先に開かれた風景(空間Q)が、ディスプレイの物理的な向こう側として感覚されるのではないか。そして、(ここで少し矛盾したことを言うようだが)この「物理的な奥行き」は必ずしも、文字通り物理世界の奥行きそのものと知覚されるわけではない。ここで指摘している「物理的な奥行き」とは、あくまで、ディスプレイ空間を主空間としている住人にとっては、原理的に不可視な次元のものが現実に滲み出したものとして感覚されるものであり、そのような、現実を現実たらしめているより生々しい場所への接近は、むしろ、ディスプレイ内部では"過剰な現実"として立ち現れてくるだろう。そして、この「現実の過剰性」こそが、紫陽花のシーンのエグさの正体なのではないか。

この過剰な現実に適応してしまったディスプレイ空間の住人にとって、もともとの現実のリアリティーは、その強度において物足りないものと感覚されるかもしれない。(空間Q)が主空間の座を射止めたところで、ディスプレイの中で構成される空間性に対する奥行き感が減退したように感じられるのは、こうした事情によるものと考えられる。


「現実」が、何らかの事情で一旦「過剰な現実」として感覚された結果、再び元の「現実」に戻った時、それが「平板な現実」として感覚される、、この種の時間的進行の汎用性について考えてみたい。その種のモデルは、様々なディスプレイによる映像表現や現実の病理の理解に対して有効なのではないだろうか。(後者の問題として)例えば、物理世界において、離人症などが生じる前段として「過剰な現実」に相当する何らかのフェーズが存在するのではないか、そのような連想と対応する。

 

Merge Nodes from Joe Hamilton on Vimeo.