ことばの錯覚

拮抗する複数の住人のための覚書(小鷹研理)

『address』(谷口暁彦、2018、展示「ハロー・ワールド ポスト・ヒューマン時代に向けて」より)

 

谷口暁彦 address 2 @水戸芸術館

 
一見すると、単なるモザイグ画のようにみえる。けれど、少しでもその場に留まれば、「単なるモザイク画」という言葉で済ませてしまうには、あまりに手強い緊張が走っていることに気づくこととなる。
 
イメージの中で、風景を「見ている」主体の痕跡が消しようもなく宿ってしまっていること。そして、その何者というのが、ひどくぎこちないかたちで視覚イメージを立ち上げているようにみえること。(だから)『address』の鑑賞体験を異様せしめているものの一つの核には、風景イメージから逆照射された、それを見ていると想定される主体に付随する「ぎこちない視線」がある。そのような体感がまず先に顕れる。
 
その視線は、ある特定のエリアで固視微動を繰り返したのち、気まぐれにあさってのポイントへと焦点を結び直し(サッカード)、また固視微動を繰り返す。しかし、それは、サッカードという言葉で連想される速度感からは劇的に遠い。
 
いかにも重たい身体をひきずりながら、何かしら探し物でもしているかのように周辺をうろつき、しばらくして、何かを探し当てたのか、それとも特に望んだ収穫がなかったからと、その場所に見切りをつけ、それから(ときに十分すぎるほどの)休養を挟んで、間欠的に新たな探索ポイントへと向かう。超低速のサッカード。そして、そのたびに新たに立ち上がる「間欠的な自己」。
 
そのようにして、一枚の風景写真は、不可避的に、互いに分離された複数の時間的体験へと分節化される。そのうえで、分節化された一つの時空のさらに奥へと潜っていくと、相互にピタリと接合することのない単一のセルが、自らこそが風景の最小単位であることを強く誇示してくる(実際『address』には、作品との物理的・心理的距離に応じて、風景の時間的階層が段階的に現れては消える、という興味深い視覚体験がある)。

谷口暁彦 address 1 @水戸芸術館

 

時系列の上で間欠的に発動するスケールフリーな身体の営みが、フラットな二次元空間にフラクタルに畳み込まれていること。(もう少しやわらかく言えば)複数の時間的体験が、相互に拮抗した状態で一枚の写真の中に圧縮されている、ということ。この点を踏まえるならば、『address』の風景写真に漂う緊張の正体は、間欠的に立ち上がった複数の「見る主体」の間で成立している(あるいは成立しなかったりする)「綱渡り的な接続」にこそ見出されるのではないか。
 
全体としての風景が、拮抗する複数の住人(=「見る主体」)の間に成立するギリギリの和解によって、かろうじて立ち上がるということ。あるいは、全体が瓦解した先に躍動を始める住人個々のユニークネスが、しかし、再度、風景全体(「大きな住人」)へと統合する過程へと奉仕させられる、そのような自己否定の危機に常時晒されているということ、。
 
「見る主体」の<ぎこちなさ>に伴う時間の遅れは、「見る」という行為を、むしろ一般的な意味での「描く」行為に漸近させているようにさえみえる。その変換作用は、鑑賞者が緩やかな解像度で作品に対して注意を向けようとする時に、風景全体が、突如、(一人の人間が相応の時間をかけて仕上げていく)風景画のようなムラのある質感を持ちはじめることと無関係ではないはずだ。だから、『address』は、時間を空間に変換する装置であると同時に(であるゆえに)、「撮影する」という行為を「描く」という行為に、そして(異なる時間に撮影された)複数の写真を絵画へと変換する装置でもある。
 

address

なお、『address』における<ぎこちなさ>が、使い勝手の悪いインタフェースを使って監視カメラを遠隔的に動かしている際に発生しているものなのだと仮定するならば、その種の、<人間と機械の接合の悪さ>こそが、時間の遅れを不可避的に生み、結果的に、「奥行きのある私」を立ち上げるための契機となっている、といえるのかもしれない。と、そのような観点から、情報空間におけるリアルタイム性(が何を疎外するか)の問題を考えるのは、とても示唆に富んでいるようにも思う。 
 
(写真は、すべて、小鷹がギャラリーにてiphoneで撮影したものです)