ことばの錯覚

拮抗する複数の住人のための覚書(小鷹研理)

『Merge Nodes』(Joe Hamilton、2016) [1 / N]

Merge Nodes from Joe Hamilton on Vimeo.

 

「主空間」の座をめぐる闘争、奥行きの階層、「透明な支持体」の破れ

 

Joe Hamiltonの『Merge Nodes』、前々から気になっていたのだけれど、実写映像を扱ったポストインターネット系の作品体験の異質さとしては、あらためて、群を抜いているな、と思う。 


 実写を見るとき、観測者はその中に自らの視点を定位させようとする。没入感や空間性と呼ばれる指標は、そうした一人称体験の強度と関わる。したがって、この種の環境にも「意識の科学」にお馴染みの制約が適用される。 

意識ある脳は、二つの点火を同時に経験することはできず、一時にはただ一つの意識的な「かたまり」を知覚できるに過ぎない。
(p188, 『意識と脳』スタニスラス・ドゥアンヌ) 

僕自身は、その種の注意に関わる一般制約のこと「直列的認知限界」と呼んで整理している。「直列的認知限界」を空間性に関わる主観定位問題に適用するならば、 「ある瞬間において、視聴者が自らの透明な身体を全的に投影できる実写空間は高々一つである」と定式化できる。これは、直感とも合致しているように思う。一度に複数の座標系に身を置ける者など(たとえそれが想像の水準であっても)いないのである。


 さて、このような、ある時点で、観測者の身体イメージが投射されている空間を、以下では「主空間」と呼ぶことにしよう(「主空間」の「主」には、<主要な>という意味と<主観的な>という二つの意味が賭けられている)。一つのディスプレイに、一つの実写映像が投影されている限り、その単一の映像は、観察者が定位しようとする空間の座を常に占有できるわけで、わざわざ主空間なる概念を持ち出す必要もないだろう。他方で、『Merge Nodes』のような、複数の実写映像が同一の画角の中で並列的にせめぎ合う様な環境においては、主空間の座をめぐって、複数の空間による(ときに)壮絶な闘争が繰り広げられることがある。以下では、一枚の具体的なイメージ(画像1)を題材にして、その闘争の経緯を追ってみたい。

 

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画像1:Screenshot of 『Merge Nodes』at 3:02

Vimeoのサムネイル画像にも使われているこの印象的なカットは、仮想的な視点から地続きの屋内空間と、海越しにビルが立ち並ぶ都市空間、そして、雪解けの残る山麓の屋外空間の、三つの主要な要素から構成される(と、ここでは単純化しよう)。以下では、この一枚の画像に漂う不気味さの由来について、独自に定義した様々な心理的概念を補助線として、読み解いていきたい。まず、説明のため、それぞれの空間について、(空間O)(空間A)(空間B)の名を与えるとともに、二つの空間を分割するフレームに、便宜的に「A1」「A2」「A3」「B1」「B2」「B3」という記号を付す(画像2)。

 

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画像2:3つの空間、6つのフレーム

 

一見して、(空間O)が絶対的な主空間を構成することについては、ゆらぎようのない主観的現実であるように思える。 そのうえで、注目したいのは、(空間O)の外界へと通じる木枠越しに見える(空間A)と(空間B)とのリアリティーの差異である。僕には(おそらく僕だけでなくほとんどの人が)、(空間A)は(空間O)と隣接しており、したがって(空間A)と(空間O)は同一の空間系に属するものと感じられる。他方で(空間B)は、(空間O)に設えられた、複数のフレーム(「B1-3」)に貼られた透明な膜上に投影された「ここではないどこかの」映像であるように見える(記号の付されていない元画像である画像1に戻って、読者自身も同じような印象を持つかどうかを確認してほしい)。この種の、主観的な水準でのみ想定される、映像の出力面あるいは投影面として機能するような「透明な膜」を、以下では統一的に「透明な支持体」と呼んで、より深く考察していきたい。

 

(空間A)は、主空間にとっての「ここ」を共有する空間であり、したがって(空間A)は(空間O)とともに主空間を構成している。他方で(空間B)は、主空間にとっての「ここではないどこか」の空間の投影である。つまり(空間B)は主空間ではなく、主空間に設えられた「透明な支持体」の上に出力された投影物なのである。確かに(空間A)にも(空間B)にも奥行きは感じられる。しかし、この奥行き感には質的に決定的な差異があるように思う。(空間B)における奥行きは、(空間B)を主空間とするような座標系の内部に限って(つまり(空間B)の中に入り込むことによって)感覚されるものであり、(空間O)を主空間とするような通常の空間知覚の運用においては、(空間B)の奥行きは「透明な支持体」によって切断されてしまっている。端的に言えば、(空間A)は、窓枠の奥に"現に"存在する空間であるが、(空間B)は(空間O)の中に素朴な意味で存在していないのである。実際、(空間B)の「透明な支持体」である「B1-3」の向こう側には(このカットに限って言えば)(空間A)が存在すると感覚されるだろう。以上の意味で、(空間A)と(空間B)に構成された「奥行き」は、入れ子状に階層化されているのだ。 


 さて、この画像1において、(空間A)が主空間を占め、他方で(空間B)は主空間から締め出されてしまっているのはなぜか。おそらく、ここでは風景の内容の差異は問題ではない。ためしに「A1-3」を全て黒塗りにしてみると(画像3)、(空間B)と(空間O)は突如、何の問題もなく同じ空間を共有しているようにみえるだろう。人によっては、(空間O)が登山者のために設えられた休憩小屋であるかのように文脈化されるかもしれない。 

 

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画像3:(空間A)を黒塗りにすると空間Bが主空間に昇格する

いずれにせよ、この簡単な実験によって、画像1における(空間B)は、(空間O)とより強い親和性を持つ(空間A)の存在によって、「直列的認知限界」の壁に弾き返される格好で、主空間の座から締め出されていたという事実を確認することができる。 


 それでは、(空間A)と(空間O)の親和性とは何か。画像2における右端のフレーム「A3」に注目すると、そのフレームに貼り付いていると想定される「透明な支持体」は、フレームの手前側から向こう側へと連続する地面によって、"突き破られている"ことがわかる(画像4)。

 

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画像4:"「透明な支持体」の破れ"

 

こうして「透明な支持体」であるところの「A3」の膜は消失し、「A3」の向こう側とこちら側は、相互に地続きな同一の空間を構成することになる。(空間A)が主空間の座を手繰り寄せているのは、以上のような"「透明な支持体」の破れ"の効果に由来していると考えられる。実際、「A3」の奥にはみ出した地面を黒塗りしてしまうと(画像5)、途端に、"主空間をめぐる争い"に関わる(空間A)の圧倒的な優位性はぐらついでしまうようにみえる。

 

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画像5:「A3」へと伸びる地面を黒塗りにすると、(空間A)と(空間B)は拮抗して主空間の座をめぐって争うようになる

この状況では、「A3」越しにみえる(空間A)が、「透明な支持体」の上に投影された映像であるかのように"あえて"錯覚することは、元画像(画像1)よりもずっと容易であるように思う。さらに、そのような見方を維持したまま(空間B)に注意を向ければ、(空間B)こそが主空間であるというような感覚を得ることもまた可能であろう(このとき、「B1-3」に存在していた「透明な支持体」は主観的な水準で突き破られる)。あるいは、(空間O)が、あらゆる現実空間から隔離された場所であり、そのような孤独な空間において、全く別空間である(空間A)と(空間B)の映像が、複数のフレームに同列的に出力されている、、そのように感じることもまた可能かもしれない(この場合、全ての平面に「透明な支持体」が貼られていることになる)。いずれにせよ重要なことは、「A3」からはみ出した地面を塗りつぶすという簡単な操作によって、(空間A)と(空間B)との主空間の座をめぐる関係に、一気に多義性が生まれることである。このような多義的空間にあっては、(空間A)も(空間B)も、明確な序列関係を持たず、主空間に昇格するポテンシャルを同列的に有しているのである。 


 このように、複数の"潜在的現実"が並列的に呈示され、意識の向け方によって主空間の座が時間的に切り替わる体験は、端的に言って極めて不気味である。この種の独特な緊張感は、部分的に塗りつぶしなどの操作を行う以前の元画像(画像1)がもともと潜在的に孕んでいた不気味さを、極大的に濃縮したものであると考えるべきかもしれない。つまり、元画像における不気味さとは、明確な認知手がかり(「透明な支持体」の破れ)によって主空間の座に安定的に君臨している(空間A)の影で、それでもなお、(空間A)の足元を掬おうと窺う(空間B)の静かな意思の漏れなのである。

 

(もう少しつづく、多分)