ことばの錯覚

拮抗する複数の住人のための覚書(小鷹研理)

「気持ちいい」と「気持ちわるい」の錯覚論、メディアアートとの対話(谷口暁彦・水野勝仁・小鷹研理、2020)

はじめに

2020年11月27日より3日間にわたって、 ナディアパーク内の3つの会場を舞台に、 小鷹研究室による「からだの錯覚」に関する展示(展示名:名古屋電映博2020 注文の多い「からだの錯覚」の研究室展 [LINK]) を実施した。 コロナ禍の状況ではあったが、3日間で約200人の集客があった。本展2日目のスペシャルプログラムとして、展示会場の一部であるセブンスカフェにて、メディアアートの分野で活躍する二人のゲスト(谷口暁彦・水野勝仁)を迎え、展示主催の小鷹研理を含め三人でのトークイベントを行った。まず、各登壇者がテーマ(「気持ちいい」と「気持ちわるい」の錯覚論、メディアアートとの対話)にまつわる短いプレゼンテーションを行った後に、自由にディスカッションを行った。以下で、時系列に沿うかたちで、トークの要点をまとめる。

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趣旨説明(小鷹)

 まず小鷹より、事前に研究室公式ページのブログで公開していた記事[LINK]に沿って、本ゲストトークの趣旨について要約した。この中で、メディアアートにおける時代変遷に関わる印象論として、2000年代は「気持ちわるい」をノイズとして処理し、(物理世界とメディア世界のシームレスネスに関わる)「気持ちいい」を最適化しようとする作品ばかりがもてはやされていた一方で、2010年以降では、「気持ちいい」と「気持ちわるい」の相互のダイナミクスこそが主題化されてきた、とするパースペクティブが提示された。さらに、この種の「気持ちのいい」と「気持ちわるい」は、「からだの錯覚」において自己イメージを人工物に投射する際に特徴的にみられる二つの主観的位相と重なるものと考えられることを踏まえ、そうした観点から、「からだの錯覚」と「メディアアート」を相互に接続しようとする小鷹の企図について、メディアアート領域からの応答を求めた。

擬似同期、「私の濃度」、似ていること(谷口)

小鷹の主旨説明に引き続き、谷口によるプレゼンが行われた。冒頭、「気持ちいい / わるい」のパースペクティブと同型的な対概念として「同期 / ズレ」の問題系が提示され、谷口自身の制作を通して、同期を軸とする問題が自覚的に主題とされてきたことが述べられた。そのうえで、PC・センサ・アクチュエータ間の同期通信を可能とするフィジカルコンピューティング周りの各種デバイスに関する2000年前後の変遷(HB、I cube X、PIC、Gainerなど)を概観し、Arduinoの浸透によってガラパゴス的状況が収束するまで、これらのデバイスの性能は、ラグやノイズを伴う不完全なものであったことが指摘された。関連して、三上晴子や久保田晃弘の言葉を参照し、究極の同期を達成するインタフェースが「鏡」である一方で、習得性が高く抵抗の少ないインタフェースが必ずしも「良い」インタフェースではない、などとする示唆に富んだ見方も合わせて紹介された。
このような端末間の同期に対する志向が高まっていた2000年代にあって、谷口は、時間的に非同期的な要素がシステムを介して同期的に群がる擬態的容態であるところの「擬似同期」(濱野智史)の構造に関心を持ち、同種の構造を有する当時の自身の作品として《Jump from》が紹介された。この作品では、マリオがAボタンでジャンプする時に限って、テレビ画面が、「現在」に酷似した過去のジャンプシーンに切り替わるというものである。この作品体験として「先に自分の行為が予言されていたような」気持ち悪さが指摘されたことは重要である。つづいて、この「擬似同期」を自己と他者の関係へと敷衍し、ビデオゲームという形式における「私」の存在の奇妙さへと話は展開した。ボールの位置に応じて、制御する選手が自動的に切り替わる通常のサッカーゲームにおいては、複数の選手が、単一の「私」に擬似的に結び付けられている。このようなアクロバットな接続が常態化したゲーム文化にあって、(谷口の紹介した)単一の選手をプレイするゲーム『リベログランデ』は、現実の視点に寄り添うことが、むしろ(現実離れした)奇妙な体験を生むという、リアリティーのねじれを可視化するものであり、会場でも強い反応があった。この種の、主観視点間の擬似同期を扱う谷口作品として、《私のようなもの / 見ることについて》が紹介された。この作品では、「私」のアバターが、予期せぬ形で他者視点によって発見されるかのような体験が埋め込まれており、この際の主観的位相の機微について、保坂和志による「私の濃度」という言葉を引用して説明された。
最後に、谷口の最近の関心として、「似ている」ことについての省察が展開された。谷口によれば、「似ている」とは、「部分的に同じで、部分的に異なる」ことであり、谷口自身と谷口アバター、または谷口と自身の子供との関係に代表される関係概念として捉えられている。子供は、多くの場合、父親にも母親にも似ているが、個別の「似る」を同時に知覚することできない(子供の中に父親と母親を同時に発見することは難しい)。すなわち、「似ている」ものは、部分に着目すると全体性が喪失するような独特なかたちで、複数性を体現している。アバターもまた、オリジナルの過去の時点での姿をスキャンしたものであり、3Dスキャンに至っては、異なる時間に撮影されたバラバラな空間データが、パッチワーク的に全体に組み上げられるものである。このような観点でみると、「似ている」とは、個別に「似ている」 もの同士が擬似的に同期し合っている状態にあるといえる。この種の問題意識の反映された作品として、近作である《やわらかなあそび》が紹介された。

体験翻訳、ホーム画面をフリックする異質感(水野)

引き続き、水野によるプレゼンが行われた。まず冒頭、小鷹が水野の仕事について要約した「一人称的な「咀嚼しきれなさ」に関わる体感を起点とした体験翻訳」という表現について、水野自身の関心のエッセンスを的確に表すものであるという指摘をいただいた。水野は、人間がコンピュータという異質なインタフェースと折り合いをつけようとするにあたって、1万年スケールにわたる物理世界におけるインタラクションの蓄積がいかにして宛てがわれるか(あるいは失敗するか)、その有り様に関心を持っているという。異質なものとの触れ合いにおいて生まれる、「気持ちよさ」や「気持ちわるさ」といった主観的な体験の位相は、馴染みのある物理世界における経験則との適合性を変数とするものであり、したがって、「体験翻訳」という営為は、体験の「わからなさ」をフックとして、人とモノとの関係を何らかのかたちで更新するうえでの指標を生み出すものとなるだろう。こうした視点が、水野にとっての関心の中心にあるように感じられた。関連して、谷口作品や小鷹研究室の試み全般に対して言及があり、作品の中で呈示される、質量が抜けてテクスチャ化した身体を操作する際に(水野は、これを「ミチミチからスカスカ」と表現する)、「気持ちよさ」や気持ちよさをつきぬけた「気持ちわるさ」が見出される点に関心があると述べた。

続いて、水野は、iPhoneでホーム画面をフリックする際にみられる、アプリのアイコンがグリッド状に並ぶレイヤ全体が面として左右に移動する映像を見せながら、この体験の「わからなさ」について説明された。とりわけ、ディスプレイに物理的に触れている一点の操作が全体の面に及ぶ変換の恣意性に対して、ある種の「不安」さえ覚えるという。一方で、この種のインタフェース体験は、多くのユーザにとって既に自明のもの、馴染みのあるものとなっていることも事実である。様々なインタフェースが登場する過渡期である現在は、新しい体験が次々とユーザによってテストされ、「気持ちわるい」体験が淘汰され、「気持ちよい」体験だけが残っていく、その種の進化的過程の只中にあり、ここで取り残されてしまった「気持ちわるい」を増幅し、異なった意匠で提示するものが、アートの役割であるとする視点が提示された。

平面に潜在する奥行き、時代の感受性

三人によるディスカッションでは、まず、水野によるプレゼンの最後に紹介された作品をきっかけとして、二次元的な図像が突如三次元的な奥行きを持つ体験が話題に上った。具体的に題材とされたのは、複数の空間が一つの画面の中で乱立し、注意や映像の効果によって、特定の空間の図像が奥行きを持ったり、逆に平面化する映像体験を生む、Joe Hamiltonの作品《Merge Nodes》である。本作品について、スマホ的なフリックやスワイプ的な操作が映像平面における特定の実空間に適用されており、遷移している間は、スマホ上のレイヤに感じるものと近い平面的な質感に変換されること(水野)、複数の空間が同時に「自分こそがこの空間の主人(主空間)である」ことを主張することによる不気味さ(小鷹)、SFX的な合成技術でみられるようなパッチワーク的なリアリティーが作品の背景にあること(谷口)などが指摘された。
また、同種の体感を持つものとして、YoFのインスタレーション作品《2D Painting》や(ここでは実空間とインターネット空間での作品体験の齟齬についても議論は活発に展開した)、カメラによって撮影された写真をVR空間に配置することによって、写真が三次元化するタイプのゲームについても紹介され、(従来は絵画において抽象的な次元で扱われてきたような)「二次元的な図像が奥行きを持つ」あるいは「三次元的な映像が平板化する」タイプの体験を有する作品が、近年、世界中のメディア空間で同時多発的に発表され注目を浴びている現状が指摘された。小鷹は、1998年におけるラバーハンド錯覚の発表を例に、インターネットやVR環境によって時代の感受性が特定の方向へと展開した結果、はじめてこの種の本来普遍的な問題が「問われるべき水準」に昇格したのだとする見方を提示した。この感受性の内実に関して、谷口は、従来の視覚・聴覚優位のインタフェースから、(東浩紀による触視平面を引用しつつ)動画像に対して触覚的に関わる体験が一般化した結果、動画像が静的なものから手の及ぶ操作の対象となったこと、水野は、現象学において写真の次元の不可解さは議論の対象であったこと、さらにスマートホンにおける「ぺらぺらの画像」をフリックする体験は写真の二次元性を強調するものであり、その反転として奥行きの問題が前景化したのではないかという見方が提示された。

野蛮の効用、ジュゲムの視点、身体の物質性

谷口は、単眼による奥行き知覚の事例を引き合いに、小鷹研究室の体験においては、知覚の解像度を意図的に下げることによって、錯覚の度合いが高まることがあることを指摘した(BACK HAND LOCK HELPER、《Room Tilt Stick》)。関連して、本展の多くの体験環境が、通常のメディアアートの展示では到底許容されないような「野蛮さ」「乱暴さ」を伴うもので(《Room Tilt Stick》《胴体ゴムゴム新感覚》)、足場がぐらついたノイジーな状況で錯覚体験に没入する効用を指摘した。また、頭部離脱系の体験について(《腕凧》《胴体ゴムゴム新感覚》)、頭部がアバターから離脱する際に、それが自分の頭ではなく「それを追いかけている誰か」あるいは「誰でもない誰か」となってしまうような、これまでにない独特な体験を得たと述べた。この「誰でもない誰か」を理解するにあたって、谷口は『スーパーマリオ64』における(キャラクターを撮影する透明なカメラを操作する)ジュゲムの存在を挙げ、小鷹は、あらゆる個人に潜在するジュゲムを、体験を通じて自覚させることこそが制作の主題であると応答した。
水野は、最も強い印象を受けた体験として、鏡を使用した錯覚である《質量ゼロのガムテープを転がす》を挙げた。とりわけ、体験において生まれる、主観像と客観像のコントラストが、双方の強度が損なわれないかたちで得られること(例えば、客観を把握しつつもすぐに主観へと反転する)、さらに、そうした体験の両義性をWEBやブックレットの中で、「主観ドローイング」と「客観ドローイング」という並列的なかたちで可視化している点について、興味深く感じると述べた。また、ハーフミラーを用いた《ボディジェクト闘争》については、歯ブラシの反りに合わせて、自分の手の指が勝手に上を向いてしまったという自身の体験を挙げ、自らの身体の物質性を強く意識させるものとなっていると述べた。同様に谷口も、自分の手が透けて、自分の手の中にモノ(骨・肉)が詰まっている印象があり、3DCGでつくられるような、中身の無い手を持つかのような気持ちわるさを覚えたことを指摘した。

公開質問

この後、事前に公開していた公開質問状の内容に沿って、お互いの質問について回答を寄せ合った。

◯ 水野

「それでは、まずは、小鷹さんからの次の質問に僕たちが答えましょうか。」

 

小鷹の質問

科学者が「アート」という言葉を使うときに感じる違和感があれば教えてください。

◯ 水野

「僕は(違和感は)無くて、、逆にこれからどんどん使ってほしいというのがありますね。アートは認識の問題だと思っていて、認識をずらしてくれるものが僕にとってアートの作品という感覚があります。そういう視点から見ると、科学は違和感の塊のようなところがあって、世界をとらえる方法で、これまでと違う認識をもたらすものとしてはアートだと科学者が言っても僕は問題なく受け入れてます。」

◯ 谷口

「僕もそんなに違和感はなくて、僕も今、ゲームアートのジャンルのものを紹介したりキュレーションしたりしているなかで言われることとして、あるタイプのゲームアートの作品が、美術館の制度とかルールに適したかたちに変形されていることに対する批判があります。通常ゲームは20時間とか30時間とかプレイして全部クリアしないと、そのゲームがなんであるのか理解できないので、そもそもゲームそれ自体は展示に向いていないんですね。だけど、それを使って映像作品を作るだとか写真作品を作るということをやると、それは美術のフォームにきれいに収まる一方で、ゲーム本来が持っている面白さをスポイルしてしまって、美術館の制度に収まるように加工しているようにみえてしまう。その意味で、文化的な搾取にみえてしまう、と言われたことがある。」
「で、僕、その反動で、「Art Speed」という美術作品をレースゲームのレースカーとして走らせて、どの作品が一番早いかを競うみたいなゲームを作っているんですよね。それって、むしろ、アートのフォームに全然収まらないものを、ちゃんとゲームとして作ることで、アートという制度を批判できないかということを考えていたんですよね。つまり、もともとアートレビューというメディアが、毎年、美術業界で影響力のあった人に「パワー」て名前をつけて、100人選ぶ、あれもよくわからないから(笑)、力が可能であれば速度でもいいなって思って。(中略)こういう風に、違うジャンルで、アートという言葉が使われることで、むしろ、固着してしまったアートの制度みたいなものが、なんか変わっていくといいな、という気持ちはありますけど。 」

◯ 水野

「それでは、今度は谷口さんからの逆の質問にいきましょうか。」

谷口の質問

アーティストが作品の中で、社会や、歴史、科学について言及するときの違和感があれば教えてください。

◯ 小鷹

「では、まず僕から、、。違和感というか、言及がなければ成立しないような作品については、一鑑賞者としてはのりにくいな、というのはあります。これは、僕自身の生理的な問題だったり、ハードウェアの問題だったりするわけですが、映像作品とかダメなんですね。20分とか30分とかになると、もう無理、無理という。もともと好きな作家が、たまに映像作品を出してきた、というのであれば見れるかもしれないけれど、(中略)例えば、誰かとつきあうことになって、恋人になって、よりよくお互いを知りたいという段階で映像作品を見るのはあり得るんだけど(笑)、いきなり出会ったばかりの人から、飲みの席とかで長々と深い話を吹っかけられてきても引いちゃいますよね、という感じが近いです。いま、いっぱい作家がいるなかで、持ち時間も限られている中で、何の理由もなく、一つの作品に20分も30分も時間を割けないですよね。端的に。だから、今使った恋人の例でいうならば、まず「一目惚れ」の段階がなくちゃダメで、で、これはわかりやすければいいというわけではなくて、「何か気になる」というか、それこそ「咀嚼しきれなさ」のようなものが重要なとっかかりになると思います。」

◯ 水野

「僕は、社会・歴史に関しては(違和感は)ないですね。それを前提としないと作品は成り立たないところが、、特に映像作品なんかは、なんで本にしなかったのかと感じるものもあるくらいで、、だから、いままで言語でやってきたものを、映像とかアート作品で、という流れの中にあっては、社会・歴史について言及することは特に違和感はありません。」
「科学については、もっと積極的に言及してもいいのかなという気がしています。デュシャンとかが四次元に言及していた時代は、すごく科学と芸術が密接に関わっていた気がするんですけど、コンピュータ以後、より科学が高度になっていったときに、芸術の方がそこに言及することが少なくなっていった気がしていて、今だと理論物理なんかでは9次元とかすごい話になっているところで、そういったところに着想を得てもいいのかなと。そうすると、コンピュータを使ったアートにしても、また違った着想を得るのではないかと。ただ単に、科学的なものを可視化したものがアートかと言われると、問題あるかもしれないですけど、。」

◯ 小鷹

「ただ可視化するだけで、それが科学とアートの融合だ、という風に勘違いしている人は、むちゃくちゃ多いですね。」

◯ 水野

「その線引きは難しくって、例えば「6次元の立体を可視化しました」と言って、それをCGで見せられても、まぁ、そうだよね、という感じで終わっちゃうのが大半なのはその通りで、ただ、さきほどの「一目惚れ」とか「咀嚼しきれなさ」とか「ぐっとくる」体験というのは、ずっと見ているとあるので、これは個人的な相性というものとなってしまうところもありますが、 科学的なものをベースにしながらの、こちら側の認識を変えるような作品というのはあり得るんじゃないかと。そのためには(科学に)言及し続けないといけないな、という感じはしています。。」

◯ 谷口

「たしかに、小鷹さんが言ったみたいに、海外の国際展とかを見ていると、アーティストの作品が、社会とか政治に強くアプローチするものが多くなっていて、かつそれがしばしば映像作品であることが多く、あるいはレクチャーパフォーマンスのような作品になってきていて、映像作品の数が多くて一度に見切れないような状況が起きていて、それが必然的な流れであるとするならば、そもそも展覧会という制度を変えざるを得ない、というところはあるんじゃないか、と感じてます。」
「ほんとになんか、シンポジウムでもいいよね、というか。実際、シンポジウムの中でレクチャーパフォーマンスをやるような例もあるので、その辺、変わってくるんじゃないかと。 学会発表みたいな形式で美術展が行われるというのもありうるのかもしれない。パネル発表してる人がいたりとか、1分間でプレゼンして次々と入れ替わるとか、いかにも学会みたいなフォームで展覧会が行われるということが逆にあり得るのかな、という気はしてます。」

◯ 水野

「では、次に、それぞれが一番「答えにくかった質問」に答えてほしいなと思うんですけど、そういう質問はありますか?」

◯ 小鷹

「では、まず僕からで、この谷口さんからの質問になります。」

谷口の質問

新型コロナウィルス以後において、インタラクティブ、体験型のアート作品をどのように作ることが可能でしょうか?

◯ 小鷹

「これが、なぜ答えにくかったかというと、実は、今回、小鷹研の作品は、ばちばち対面でつくってるんですね。僕の大学の中を見てみても、他の研究室の学生は全然大学に来てないように見えてて、(積極的な例としては)ある研究室は、この状況にスマートに対応して、制作環境をVRChatにシフトしていたりもするんですが、、いずれにせよ、周囲が引きこもったり制作空間をオンラインに移行している中、うちは何も変えずに今回の展示にアプローチしているんです。もちろん、、東京と違って何も変えずに済んだという側面もありますが。」
「それで、少しずらした回答になるのですが、僕は、そんなにポストコロナということを過剰に意識する必要はないんじゃないか、って思ってるんです。さっきの話で言うと、(うちの大学は意外と寛容で)制作環境の制限は最低限のものとなっていて、大学に来ればいままでどおり制作できるのに、なんでほとんどの学生は家に引きこもってるんだろう。あぁ、みんな、こういうのが本当はすごく好きなんじゃないか、て思ったんですね。自分を透明化して、水野さんの言葉で言うと、完全にスカスカとなって、ネット空間でマトリックス的に世界に接続するような、、そういうのが好きなんじゃないか、という。この風潮を放っておくと、今の当たり前が、すごく野蛮なことに堕ちてしまうというか、外に出ることがすごく不潔なことのようになってしまう気がしてます。そのような未来が容易に想像できてしまう。(中略)放っておいても、ポストコロナの社会状況の中で、世界が透明化していく方向へとだ〜と流れていくところで、その中で、僕は、この種の問題に真剣に向き合うと言うよりは、今できる範囲で、対面でやり続けるということに留まろうとしているところはあります。」

◯ 水野

「次は僕で、僕も実は谷口さんからの質問になります。」

谷口の質問

インターフェースと私たちの関わりの問題は、個人や知覚や経験だけでなく、人同士の繋がりや関係性といった、集団、社会の問題にも繋げていけそうに思うのですが、どのような方法で繋げていくことができるでしょうか?

◯ 水野

「僕はなぜインタフェースの研究をやっているのかというと、あまり社会とか集団とかについて考えたくないから、というのがあって。で、先程から私の話を聞いていると、認識とか主観の中に閉じこもっているな、という印象を持つ人も多いと思うのですが、まさに僕はそこに閉じこもって、主観の認識の変化にしか興味がないということろもあるんです。」
「それでも、コンピュータ自体のインタフェースは、SNSなどを介すると、どうしても社会的なものと結びついていいきますね。例えば、SNSの「いいね」に注目すると、一つの指で画面に触れるだけという最小的な行為で何か評価を決め続けるという社会性を、インタフェースが実現しているというのは一つの例だと思います。Facebookの「いいね」が5つの感情に分類した絵文字で選べるようになったりということで、これまで言語で意見や感情が大きく分断されていたのが、絵文字であれば多少は分断されない、ということがあるかもしれない。ただ単にボタンを「押させる」ことだけですが、インタフェースの問題が、SNSを介して社会とつながり、言語の問題にまで広がっているとも言えます。このようなことを考えると、インタフェースを介して社会的な分析も僕の中ではできるのかな、という風に考えています。 」

◯ 谷口

「実は、(今、二人が回答した)自分が考えた質問は、両方とも自分がわからない質問を書いたんですね。つまり、自分でもあんまり答えにくかったりするもので、むしろ僕自身でも考えたいなと思ったことを聞いたんです。」
「「新型コロナウィルス以後において〜」の質問は、多分、小鷹さんからの質問「いわゆる鑑賞者の参加による体験型の作品が、美術やメディアアートの領域で極めて少ないように思えるのはなぜなのでしょうか。」と対になっていて、確かに、ある時期までは、そのような作品が結構あったように思うんですが、(今ではほとんどなくなってしまった)原因が僕もまだよくわからなくて、Arduinoが普及したくらいから、大学とかでも僕らの周りとかも、あんまりインタラクティブな作品を作る人がいなくなっちゃったんですね。一つには、僕自身の経験で言うと、それまではArduinoとかPICで作品を作っていたのが、全部、iPadで置き換わっちゃったんですよね。つまり、iPadにはいろんなセンサがついていて、例えば、スピーカもあって、画面もあって、、いろんなことが一通りできちゃうんですよね。じゃぁ、これでいいじゃんてなってしまった瞬間があって。もしかしたら、そういうふうに何かに置き換わっちゃった可能性というのはあると思うんです。」
「で、おそらく、今のコロナの状況というのが、望むにせよ望まないにせよ、以前の状態が、野蛮な過去の歴史として葬り去れらる可能性があると思ったんですね。在籍中の多摩美では、食堂とか教室内とか普通にタバコが吸えたんですが、今では、それが、すごく野蛮なことになってしまっている。たった10年で、一切が変わってしまっているわけで、、今後、何が元に戻るかとか、何が元に戻らないかとか、まだ全然わからないんだけど、でも、何かがもとに戻らないはずなんですよね。それが、これからの作品の作り方に、すごく影響してしまうとしたら、どうしたらいいのか、何が起きるのか、、そんなことを、ちょっと考えているんですけれど。」

◯ 小鷹

「今の谷口さんの話はすごくリアリティーがあって、僕の(学部3年生向けの)専門の授業は、実は、狩猟最終民の話から始めるんです。それこそ、そこには、忘れられてしまった人間の一つのフォームがあったわけですが、実のところ、遺伝子的には僕たちは、いつでもその時に戻れるわけです。生まれた時から、狩猟最終民の文化で育てられれば、普通に適応できてしまう。でも、この種の(人類学的な)切断は本当に決定的で、もうどうにもならないわけです。まさに、先程のタバコの例もそうですけれど、世の中「クリーン」な方向に向かうのは本当に簡単だから。で、そのように忘れられてしまったものに対して、どのようにアプローチするのかというのも、美術の重要な役割であると思っていて、それに関連していうと、僕の水野さんに対する質問なんですが、僕たちはインターネット以前の世界を知っていて、だからおそらくポストインターネットというのは、僕はそこまで詳しくないですが、インターネット以前にはあったもので今では忘れ去られてしまったものを、何かしらの形で引き上げるというか、つつくことによって、今の現実(の偶然性)を照り返すような性格を持っていると思っています。そうすると、インターネット以後に生まれた人間が、いかにポストインターネットの制作が可能なのかという点は、今の話とリンクして、ぜひ水野さんに聞いてみたいことです。」

小鷹の質問

一般に「ポストインターネット」の作風でくくられれる作家の多くは、インターネット以前の世界に生まれ、インターネットの登場に伴う世界の決定的な変容を原体験として刻んでいるように思います。それでは、インターネット以後の世界に生まれた世代の作家に「ポストインターネット」の制作は可能なのでしょうか。

◯ 水野

「これ回答しにくいな、と思ってて、あらかじめ考えていて、テキストを書いてあります、、(笑)。制作は不可能だと思います。技術的に、生まれる以前のものと比較できないと、それは難しいだろうと。それはポストインターネットの問題に関わらず、何かしらのテクノロジーが更新された時の以前以後というのは、常にそうしたことが言えるんだろうなと思います。インターネット以後に生まれた人は、勉強して「ポストインターネット風」なものはつくれるかもしれないですが、ポストインターネットそのものというのはつくれないと考えます。それは、テクノロジーと共に、認識はアップデートしていくわけで、ある一定の前提条件のもとで出てくる表現というのは、必然的に、そのときにしか生まれてこないだろう、と私は考えているからです。私自身もインタフェースやテクノロジーの前提がズレてしまった、自分よりも若い人たちの作品がわからなくなってきています。、このことは作品を考える上で、自分の中ですごく恐怖とか難しさを感じている点です。」
「一方で、「死」のように、いくらテクノロジーが変わっても、捉え方が変わらない問題もあるかもしれないので、普遍的な問題に関心がいくのかもしれません。死も、不死が技術的に可能になったら、その意味が変わるのかもしれないけれど。 」

◯ 小鷹

「僕は、この点について、かなり怪しいと思っていて。僕の主観的な印象なのですが、人文系とか美術系には「死ぬものこそが人間だ」というような(注:死を基点として人間を特徴づけようとする)人間観があって、僕も多分こっちに近いんですが、工学系の人たちの多くは、「死は乗り越えるべきもの」と考えているようなところがあって、もっというと「死ななくなることを、人間のある種の到達」と捉えている気がしてます。とりわけ工学系の近年のVRの使われ方とかを見てると、そのような感じが強くしていて、この問題は、人文系と工学系の間の、すごく危ない、大きな分断になりそうだという印象を持っています。」

◯ 水野

「合成生物学などに依拠すると「生命」は設計できるけど、「死」は設計することはできない、「死という概念は無い」という話もあったりします。そうすると、「死」を設計できないという認識をテクノロジーや科学から提示されることによって、「死」というものは変わってくると思うんですが、そうしたテクノロジーや科学の実践や考えを前提にして、人文系とか美術系の間で「死」そのものの現象の捉え方が本質的に変わっているのかに興味があります。あるいは「死」が本質的には変わることがなく、単に語り方としての解釈だけが変わってくるのか。「死」に代表されるような普遍的と考えられている現象や概念と科学やテクノロジーによってどのように変わるのか、変わらないのか、ということのなかで、同時代のアートの作品を考えるということは何を意味するのかということは、、今、自分の中でひっかかっているところです。」

おわりに

この後、聴衆からの質疑を経て、3時間に及ぶトークを終えた。
本ゲストトークでは、「気持ちいい」と「気持ちわるい」の体感を補助線に、科学と美術のコンテクストが分け隔てなくぶつかり合う稀有な議論の場を設定することができたように思う。近年のメディアアート作品において暗黙的に了解されていたであろう、主観における特徴的な体験の機微に対して、複数の観点より議論の種を撒くことができたという自負がある。こうした知的空間を生む触媒となっていただいた、谷口暁彦氏と水野勝仁氏に対しては感謝の念に堪えない。また、コロナ禍にもかかわらず、愛知県内外から集まり、長時間にわたる議論に熱心に耳を傾けていただいた来場者(アーティストの割合が非常に多かったのが印象的でもあった)の方々にも感謝の意を表する。