ことばの錯覚

拮抗する複数の住人のための覚書(小鷹研理)

『三月の5日間 リクリエーション』(チェルフィッチュ、2018)

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無意識空間を無作法に横断する複数の住人たち。それぞれの嗜好を持ち、それぞれの時間軸を内包し、それぞれの視点から世界を眺める。似ているものもあれば、相反するものもある。お互いがお互いに直接的なかたちで干渉することもなく、それぞれが勝手に、それぞれの立場から世界を眺めている。互いに重ね合わされた幽霊。彼らの中には、決して、意識の中に顕れてこない者もいる。それでもなお、その住人は、身体の震えを通して、自覚的および無自覚的な行動決定にじわりじわりと影響を与えることがある。そして、それは、(複数の住人の住まう)集合住宅の足場そのものを組み替えていく。そのようにして、複数の住人を内包した場としての<自分>を所与のものとして受け止めることが、世界の複数性を受け入れるための素地となる。僕には、そんな<自分観>があり、そして<世界観>との接続に関する見立てがある。

だから、僕には、「三月の5日間・リクリエーション」が、そんな住人たちが、意識の舞台へと(通常の検閲を経ないかたちで)無防備に顕れては退き、顕れては退きを繰り返していく、そんな<自分>の中の風景としてみえた。身体の統制が効いていないのは、彼らの身体の震えを統制している住人の声(チューニング)が、岡田利規によって意図的に弱められているからであり、、しかし、そんなフロイトのいうところの<超自我>的な役回りを、誰か特定の住人が担っているのかというと、多分そういう単純なことではなくて、、常識なり社会性が単一の人格に短絡されるようにみえるのは、複数の住人を変数として織り成される「複雑な数学」から不可避的に漏れ出してしまう、システムの副作用のようなものなのかもしれない。
 
その「複雑な数学」は、住人たちの役回りの配置を、最適性からは程遠い、その都度、与えられた条件下で、たまたま近くにあった窪みへと滑り込んでいくようなかたちで、刹那的に実行していく。「三月の5日間」の演者のほとんどは、既に誰かによって語られたことを、臆面もなく自らの発話の中に挿入していく。というか、後発の、誰かしらの発話によって、それ以前に語られていたことの解釈がドラスティックに変わる、というような、(あの黒澤明羅生門」で演出されるような)人文学的なカタルシスは完全に放棄されている。だから、彼らは、みながみな、筋書きを確定させるにあたって、一人くらい欠けても、何も困らないような者たちばかりだということになる。彼らは、何かを語ることによって、何も新しいことを語れないことを身を持って示す。何かを語ることによって、自身の固有名を積極的に放棄している、とさえいえる。これは、控えめにいっても「複雑な数学」の(しかし、あらかじめシステムの中に織り込まれている)失敗ではないか。
 
だから、僕にとっては、後半、四方から、(それまで散々、重複を含む話を、異なる場所で繰り広げて来た)4人がダラシなく前方に集ってくるシーンが、とにかくヤバかった。彼らは、そこで、自分が、他の3人と交換可能な住人であるという<システムの失敗>に立ち会うこととなる。僕は、そこで、何か(誰かの発話に他の誰かが割って入るような)干渉であったり、(2人の発話が揃ってしまうような)調和のような局面が起こることを少し想像した。しかし、彼らは、自らの存在意義が瓦解するような状況に直面してもなお、少しも動揺してみせることなく、システムの厳格なルール(意識の直列性)に従い、自分のターンが来るまでは発話を慎み、そして、自分のターンが来たときには、誰かがすでに発話した内容を、やはり臆面もなく繰り返してみせた。そして、その潔さに対して、僕は、ただ「盲目」であること以上の積極的な「複数性の倫理」のようなものを感じ取った。