ことばの錯覚

拮抗する複数の住人のための覚書(小鷹研理)

「気持ちいい」と「気持ちわるい」の錯覚論、メディアアートとの対話(谷口暁彦・水野勝仁・小鷹研理、2020)

はじめに

2020年11月27日より3日間にわたって、 ナディアパーク内の3つの会場を舞台に、 小鷹研究室による「からだの錯覚」に関する展示(展示名:名古屋電映博2020 注文の多い「からだの錯覚」の研究室展 [LINK]) を実施した。 コロナ禍の状況ではあったが、3日間で約200人の集客があった。本展2日目のスペシャルプログラムとして、展示会場の一部であるセブンスカフェにて、メディアアートの分野で活躍する二人のゲスト(谷口暁彦・水野勝仁)を迎え、展示主催の小鷹研理を含め三人でのトークイベントを行った。まず、各登壇者がテーマ(「気持ちいい」と「気持ちわるい」の錯覚論、メディアアートとの対話)にまつわる短いプレゼンテーションを行った後に、自由にディスカッションを行った。以下で、時系列に沿うかたちで、トークの要点をまとめる。

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趣旨説明(小鷹)

 まず小鷹より、事前に研究室公式ページのブログで公開していた記事[LINK]に沿って、本ゲストトークの趣旨について要約した。この中で、メディアアートにおける時代変遷に関わる印象論として、2000年代は「気持ちわるい」をノイズとして処理し、(物理世界とメディア世界のシームレスネスに関わる)「気持ちいい」を最適化しようとする作品ばかりがもてはやされていた一方で、2010年以降では、「気持ちいい」と「気持ちわるい」の相互のダイナミクスこそが主題化されてきた、とするパースペクティブが提示された。さらに、この種の「気持ちのいい」と「気持ちわるい」は、「からだの錯覚」において自己イメージを人工物に投射する際に特徴的にみられる二つの主観的位相と重なるものと考えられることを踏まえ、そうした観点から、「からだの錯覚」と「メディアアート」を相互に接続しようとする小鷹の企図について、メディアアート領域からの応答を求めた。

擬似同期、「私の濃度」、似ていること(谷口)

小鷹の主旨説明に引き続き、谷口によるプレゼンが行われた。冒頭、「気持ちいい / わるい」のパースペクティブと同型的な対概念として「同期 / ズレ」の問題系が提示され、谷口自身の制作を通して、同期を軸とする問題が自覚的に主題とされてきたことが述べられた。そのうえで、PC・センサ・アクチュエータ間の同期通信を可能とするフィジカルコンピューティング周りの各種デバイスに関する2000年前後の変遷(HB、I cube X、PIC、Gainerなど)を概観し、Arduinoの浸透によってガラパゴス的状況が収束するまで、これらのデバイスの性能は、ラグやノイズを伴う不完全なものであったことが指摘された。関連して、三上晴子や久保田晃弘の言葉を参照し、究極の同期を達成するインタフェースが「鏡」である一方で、習得性が高く抵抗の少ないインタフェースが必ずしも「良い」インタフェースではない、などとする示唆に富んだ見方も合わせて紹介された。
このような端末間の同期に対する志向が高まっていた2000年代にあって、谷口は、時間的に非同期的な要素がシステムを介して同期的に群がる擬態的容態であるところの「擬似同期」(濱野智史)の構造に関心を持ち、同種の構造を有する当時の自身の作品として《Jump from》が紹介された。この作品では、マリオがAボタンでジャンプする時に限って、テレビ画面が、「現在」に酷似した過去のジャンプシーンに切り替わるというものである。この作品体験として「先に自分の行為が予言されていたような」気持ち悪さが指摘されたことは重要である。つづいて、この「擬似同期」を自己と他者の関係へと敷衍し、ビデオゲームという形式における「私」の存在の奇妙さへと話は展開した。ボールの位置に応じて、制御する選手が自動的に切り替わる通常のサッカーゲームにおいては、複数の選手が、単一の「私」に擬似的に結び付けられている。このようなアクロバットな接続が常態化したゲーム文化にあって、(谷口の紹介した)単一の選手をプレイするゲーム『リベログランデ』は、現実の視点に寄り添うことが、むしろ(現実離れした)奇妙な体験を生むという、リアリティーのねじれを可視化するものであり、会場でも強い反応があった。この種の、主観視点間の擬似同期を扱う谷口作品として、《私のようなもの / 見ることについて》が紹介された。この作品では、「私」のアバターが、予期せぬ形で他者視点によって発見されるかのような体験が埋め込まれており、この際の主観的位相の機微について、保坂和志による「私の濃度」という言葉を引用して説明された。
最後に、谷口の最近の関心として、「似ている」ことについての省察が展開された。谷口によれば、「似ている」とは、「部分的に同じで、部分的に異なる」ことであり、谷口自身と谷口アバター、または谷口と自身の子供との関係に代表される関係概念として捉えられている。子供は、多くの場合、父親にも母親にも似ているが、個別の「似る」を同時に知覚することできない(子供の中に父親と母親を同時に発見することは難しい)。すなわち、「似ている」ものは、部分に着目すると全体性が喪失するような独特なかたちで、複数性を体現している。アバターもまた、オリジナルの過去の時点での姿をスキャンしたものであり、3Dスキャンに至っては、異なる時間に撮影されたバラバラな空間データが、パッチワーク的に全体に組み上げられるものである。このような観点でみると、「似ている」とは、個別に「似ている」 もの同士が擬似的に同期し合っている状態にあるといえる。この種の問題意識の反映された作品として、近作である《やわらかなあそび》が紹介された。

体験翻訳、ホーム画面をフリックする異質感(水野)

引き続き、水野によるプレゼンが行われた。まず冒頭、小鷹が水野の仕事について要約した「一人称的な「咀嚼しきれなさ」に関わる体感を起点とした体験翻訳」という表現について、水野自身の関心のエッセンスを的確に表すものであるという指摘をいただいた。水野は、人間がコンピュータという異質なインタフェースと折り合いをつけようとするにあたって、1万年スケールにわたる物理世界におけるインタラクションの蓄積がいかにして宛てがわれるか(あるいは失敗するか)、その有り様に関心を持っているという。異質なものとの触れ合いにおいて生まれる、「気持ちよさ」や「気持ちわるさ」といった主観的な体験の位相は、馴染みのある物理世界における経験則との適合性を変数とするものであり、したがって、「体験翻訳」という営為は、体験の「わからなさ」をフックとして、人とモノとの関係を何らかのかたちで更新するうえでの指標を生み出すものとなるだろう。こうした視点が、水野にとっての関心の中心にあるように感じられた。関連して、谷口作品や小鷹研究室の試み全般に対して言及があり、作品の中で呈示される、質量が抜けてテクスチャ化した身体を操作する際に(水野は、これを「ミチミチからスカスカ」と表現する)、「気持ちよさ」や気持ちよさをつきぬけた「気持ちわるさ」が見出される点に関心があると述べた。

続いて、水野は、iPhoneでホーム画面をフリックする際にみられる、アプリのアイコンがグリッド状に並ぶレイヤ全体が面として左右に移動する映像を見せながら、この体験の「わからなさ」について説明された。とりわけ、ディスプレイに物理的に触れている一点の操作が全体の面に及ぶ変換の恣意性に対して、ある種の「不安」さえ覚えるという。一方で、この種のインタフェース体験は、多くのユーザにとって既に自明のもの、馴染みのあるものとなっていることも事実である。様々なインタフェースが登場する過渡期である現在は、新しい体験が次々とユーザによってテストされ、「気持ちわるい」体験が淘汰され、「気持ちよい」体験だけが残っていく、その種の進化的過程の只中にあり、ここで取り残されてしまった「気持ちわるい」を増幅し、異なった意匠で提示するものが、アートの役割であるとする視点が提示された。

平面に潜在する奥行き、時代の感受性

三人によるディスカッションでは、まず、水野によるプレゼンの最後に紹介された作品をきっかけとして、二次元的な図像が突如三次元的な奥行きを持つ体験が話題に上った。具体的に題材とされたのは、複数の空間が一つの画面の中で乱立し、注意や映像の効果によって、特定の空間の図像が奥行きを持ったり、逆に平面化する映像体験を生む、Joe Hamiltonの作品《Merge Nodes》である。本作品について、スマホ的なフリックやスワイプ的な操作が映像平面における特定の実空間に適用されており、遷移している間は、スマホ上のレイヤに感じるものと近い平面的な質感に変換されること(水野)、複数の空間が同時に「自分こそがこの空間の主人(主空間)である」ことを主張することによる不気味さ(小鷹)、SFX的な合成技術でみられるようなパッチワーク的なリアリティーが作品の背景にあること(谷口)などが指摘された。
また、同種の体感を持つものとして、YoFのインスタレーション作品《2D Painting》や(ここでは実空間とインターネット空間での作品体験の齟齬についても議論は活発に展開した)、カメラによって撮影された写真をVR空間に配置することによって、写真が三次元化するタイプのゲームについても紹介され、(従来は絵画において抽象的な次元で扱われてきたような)「二次元的な図像が奥行きを持つ」あるいは「三次元的な映像が平板化する」タイプの体験を有する作品が、近年、世界中のメディア空間で同時多発的に発表され注目を浴びている現状が指摘された。小鷹は、1998年におけるラバーハンド錯覚の発表を例に、インターネットやVR環境によって時代の感受性が特定の方向へと展開した結果、はじめてこの種の本来普遍的な問題が「問われるべき水準」に昇格したのだとする見方を提示した。この感受性の内実に関して、谷口は、従来の視覚・聴覚優位のインタフェースから、(東浩紀による触視平面を引用しつつ)動画像に対して触覚的に関わる体験が一般化した結果、動画像が静的なものから手の及ぶ操作の対象となったこと、水野は、現象学において写真の次元の不可解さは議論の対象であったこと、さらにスマートホンにおける「ぺらぺらの画像」をフリックする体験は写真の二次元性を強調するものであり、その反転として奥行きの問題が前景化したのではないかという見方が提示された。

野蛮の効用、ジュゲムの視点、身体の物質性

谷口は、単眼による奥行き知覚の事例を引き合いに、小鷹研究室の体験においては、知覚の解像度を意図的に下げることによって、錯覚の度合いが高まることがあることを指摘した(BACK HAND LOCK HELPER、《Room Tilt Stick》)。関連して、本展の多くの体験環境が、通常のメディアアートの展示では到底許容されないような「野蛮さ」「乱暴さ」を伴うもので(《Room Tilt Stick》《胴体ゴムゴム新感覚》)、足場がぐらついたノイジーな状況で錯覚体験に没入する効用を指摘した。また、頭部離脱系の体験について(《腕凧》《胴体ゴムゴム新感覚》)、頭部がアバターから離脱する際に、それが自分の頭ではなく「それを追いかけている誰か」あるいは「誰でもない誰か」となってしまうような、これまでにない独特な体験を得たと述べた。この「誰でもない誰か」を理解するにあたって、谷口は『スーパーマリオ64』における(キャラクターを撮影する透明なカメラを操作する)ジュゲムの存在を挙げ、小鷹は、あらゆる個人に潜在するジュゲムを、体験を通じて自覚させることこそが制作の主題であると応答した。
水野は、最も強い印象を受けた体験として、鏡を使用した錯覚である《質量ゼロのガムテープを転がす》を挙げた。とりわけ、体験において生まれる、主観像と客観像のコントラストが、双方の強度が損なわれないかたちで得られること(例えば、客観を把握しつつもすぐに主観へと反転する)、さらに、そうした体験の両義性をWEBやブックレットの中で、「主観ドローイング」と「客観ドローイング」という並列的なかたちで可視化している点について、興味深く感じると述べた。また、ハーフミラーを用いた《ボディジェクト闘争》については、歯ブラシの反りに合わせて、自分の手の指が勝手に上を向いてしまったという自身の体験を挙げ、自らの身体の物質性を強く意識させるものとなっていると述べた。同様に谷口も、自分の手が透けて、自分の手の中にモノ(骨・肉)が詰まっている印象があり、3DCGでつくられるような、中身の無い手を持つかのような気持ちわるさを覚えたことを指摘した。

公開質問

この後、事前に公開していた公開質問状の内容に沿って、お互いの質問について回答を寄せ合った。

◯ 水野

「それでは、まずは、小鷹さんからの次の質問に僕たちが答えましょうか。」

 

小鷹の質問

科学者が「アート」という言葉を使うときに感じる違和感があれば教えてください。

◯ 水野

「僕は(違和感は)無くて、、逆にこれからどんどん使ってほしいというのがありますね。アートは認識の問題だと思っていて、認識をずらしてくれるものが僕にとってアートの作品という感覚があります。そういう視点から見ると、科学は違和感の塊のようなところがあって、世界をとらえる方法で、これまでと違う認識をもたらすものとしてはアートだと科学者が言っても僕は問題なく受け入れてます。」

◯ 谷口

「僕もそんなに違和感はなくて、僕も今、ゲームアートのジャンルのものを紹介したりキュレーションしたりしているなかで言われることとして、あるタイプのゲームアートの作品が、美術館の制度とかルールに適したかたちに変形されていることに対する批判があります。通常ゲームは20時間とか30時間とかプレイして全部クリアしないと、そのゲームがなんであるのか理解できないので、そもそもゲームそれ自体は展示に向いていないんですね。だけど、それを使って映像作品を作るだとか写真作品を作るということをやると、それは美術のフォームにきれいに収まる一方で、ゲーム本来が持っている面白さをスポイルしてしまって、美術館の制度に収まるように加工しているようにみえてしまう。その意味で、文化的な搾取にみえてしまう、と言われたことがある。」
「で、僕、その反動で、「Art Speed」という美術作品をレースゲームのレースカーとして走らせて、どの作品が一番早いかを競うみたいなゲームを作っているんですよね。それって、むしろ、アートのフォームに全然収まらないものを、ちゃんとゲームとして作ることで、アートという制度を批判できないかということを考えていたんですよね。つまり、もともとアートレビューというメディアが、毎年、美術業界で影響力のあった人に「パワー」て名前をつけて、100人選ぶ、あれもよくわからないから(笑)、力が可能であれば速度でもいいなって思って。(中略)こういう風に、違うジャンルで、アートという言葉が使われることで、むしろ、固着してしまったアートの制度みたいなものが、なんか変わっていくといいな、という気持ちはありますけど。 」

◯ 水野

「それでは、今度は谷口さんからの逆の質問にいきましょうか。」

谷口の質問

アーティストが作品の中で、社会や、歴史、科学について言及するときの違和感があれば教えてください。

◯ 小鷹

「では、まず僕から、、。違和感というか、言及がなければ成立しないような作品については、一鑑賞者としてはのりにくいな、というのはあります。これは、僕自身の生理的な問題だったり、ハードウェアの問題だったりするわけですが、映像作品とかダメなんですね。20分とか30分とかになると、もう無理、無理という。もともと好きな作家が、たまに映像作品を出してきた、というのであれば見れるかもしれないけれど、(中略)例えば、誰かとつきあうことになって、恋人になって、よりよくお互いを知りたいという段階で映像作品を見るのはあり得るんだけど(笑)、いきなり出会ったばかりの人から、飲みの席とかで長々と深い話を吹っかけられてきても引いちゃいますよね、という感じが近いです。いま、いっぱい作家がいるなかで、持ち時間も限られている中で、何の理由もなく、一つの作品に20分も30分も時間を割けないですよね。端的に。だから、今使った恋人の例でいうならば、まず「一目惚れ」の段階がなくちゃダメで、で、これはわかりやすければいいというわけではなくて、「何か気になる」というか、それこそ「咀嚼しきれなさ」のようなものが重要なとっかかりになると思います。」

◯ 水野

「僕は、社会・歴史に関しては(違和感は)ないですね。それを前提としないと作品は成り立たないところが、、特に映像作品なんかは、なんで本にしなかったのかと感じるものもあるくらいで、、だから、いままで言語でやってきたものを、映像とかアート作品で、という流れの中にあっては、社会・歴史について言及することは特に違和感はありません。」
「科学については、もっと積極的に言及してもいいのかなという気がしています。デュシャンとかが四次元に言及していた時代は、すごく科学と芸術が密接に関わっていた気がするんですけど、コンピュータ以後、より科学が高度になっていったときに、芸術の方がそこに言及することが少なくなっていった気がしていて、今だと理論物理なんかでは9次元とかすごい話になっているところで、そういったところに着想を得てもいいのかなと。そうすると、コンピュータを使ったアートにしても、また違った着想を得るのではないかと。ただ単に、科学的なものを可視化したものがアートかと言われると、問題あるかもしれないですけど、。」

◯ 小鷹

「ただ可視化するだけで、それが科学とアートの融合だ、という風に勘違いしている人は、むちゃくちゃ多いですね。」

◯ 水野

「その線引きは難しくって、例えば「6次元の立体を可視化しました」と言って、それをCGで見せられても、まぁ、そうだよね、という感じで終わっちゃうのが大半なのはその通りで、ただ、さきほどの「一目惚れ」とか「咀嚼しきれなさ」とか「ぐっとくる」体験というのは、ずっと見ているとあるので、これは個人的な相性というものとなってしまうところもありますが、 科学的なものをベースにしながらの、こちら側の認識を変えるような作品というのはあり得るんじゃないかと。そのためには(科学に)言及し続けないといけないな、という感じはしています。。」

◯ 谷口

「たしかに、小鷹さんが言ったみたいに、海外の国際展とかを見ていると、アーティストの作品が、社会とか政治に強くアプローチするものが多くなっていて、かつそれがしばしば映像作品であることが多く、あるいはレクチャーパフォーマンスのような作品になってきていて、映像作品の数が多くて一度に見切れないような状況が起きていて、それが必然的な流れであるとするならば、そもそも展覧会という制度を変えざるを得ない、というところはあるんじゃないか、と感じてます。」
「ほんとになんか、シンポジウムでもいいよね、というか。実際、シンポジウムの中でレクチャーパフォーマンスをやるような例もあるので、その辺、変わってくるんじゃないかと。 学会発表みたいな形式で美術展が行われるというのもありうるのかもしれない。パネル発表してる人がいたりとか、1分間でプレゼンして次々と入れ替わるとか、いかにも学会みたいなフォームで展覧会が行われるということが逆にあり得るのかな、という気はしてます。」

◯ 水野

「では、次に、それぞれが一番「答えにくかった質問」に答えてほしいなと思うんですけど、そういう質問はありますか?」

◯ 小鷹

「では、まず僕からで、この谷口さんからの質問になります。」

谷口の質問

新型コロナウィルス以後において、インタラクティブ、体験型のアート作品をどのように作ることが可能でしょうか?

◯ 小鷹

「これが、なぜ答えにくかったかというと、実は、今回、小鷹研の作品は、ばちばち対面でつくってるんですね。僕の大学の中を見てみても、他の研究室の学生は全然大学に来てないように見えてて、(積極的な例としては)ある研究室は、この状況にスマートに対応して、制作環境をVRChatにシフトしていたりもするんですが、、いずれにせよ、周囲が引きこもったり制作空間をオンラインに移行している中、うちは何も変えずに今回の展示にアプローチしているんです。もちろん、、東京と違って何も変えずに済んだという側面もありますが。」
「それで、少しずらした回答になるのですが、僕は、そんなにポストコロナということを過剰に意識する必要はないんじゃないか、って思ってるんです。さっきの話で言うと、(うちの大学は意外と寛容で)制作環境の制限は最低限のものとなっていて、大学に来ればいままでどおり制作できるのに、なんでほとんどの学生は家に引きこもってるんだろう。あぁ、みんな、こういうのが本当はすごく好きなんじゃないか、て思ったんですね。自分を透明化して、水野さんの言葉で言うと、完全にスカスカとなって、ネット空間でマトリックス的に世界に接続するような、、そういうのが好きなんじゃないか、という。この風潮を放っておくと、今の当たり前が、すごく野蛮なことに堕ちてしまうというか、外に出ることがすごく不潔なことのようになってしまう気がしてます。そのような未来が容易に想像できてしまう。(中略)放っておいても、ポストコロナの社会状況の中で、世界が透明化していく方向へとだ〜と流れていくところで、その中で、僕は、この種の問題に真剣に向き合うと言うよりは、今できる範囲で、対面でやり続けるということに留まろうとしているところはあります。」

◯ 水野

「次は僕で、僕も実は谷口さんからの質問になります。」

谷口の質問

インターフェースと私たちの関わりの問題は、個人や知覚や経験だけでなく、人同士の繋がりや関係性といった、集団、社会の問題にも繋げていけそうに思うのですが、どのような方法で繋げていくことができるでしょうか?

◯ 水野

「僕はなぜインタフェースの研究をやっているのかというと、あまり社会とか集団とかについて考えたくないから、というのがあって。で、先程から私の話を聞いていると、認識とか主観の中に閉じこもっているな、という印象を持つ人も多いと思うのですが、まさに僕はそこに閉じこもって、主観の認識の変化にしか興味がないということろもあるんです。」
「それでも、コンピュータ自体のインタフェースは、SNSなどを介すると、どうしても社会的なものと結びついていいきますね。例えば、SNSの「いいね」に注目すると、一つの指で画面に触れるだけという最小的な行為で何か評価を決め続けるという社会性を、インタフェースが実現しているというのは一つの例だと思います。Facebookの「いいね」が5つの感情に分類した絵文字で選べるようになったりということで、これまで言語で意見や感情が大きく分断されていたのが、絵文字であれば多少は分断されない、ということがあるかもしれない。ただ単にボタンを「押させる」ことだけですが、インタフェースの問題が、SNSを介して社会とつながり、言語の問題にまで広がっているとも言えます。このようなことを考えると、インタフェースを介して社会的な分析も僕の中ではできるのかな、という風に考えています。 」

◯ 谷口

「実は、(今、二人が回答した)自分が考えた質問は、両方とも自分がわからない質問を書いたんですね。つまり、自分でもあんまり答えにくかったりするもので、むしろ僕自身でも考えたいなと思ったことを聞いたんです。」
「「新型コロナウィルス以後において〜」の質問は、多分、小鷹さんからの質問「いわゆる鑑賞者の参加による体験型の作品が、美術やメディアアートの領域で極めて少ないように思えるのはなぜなのでしょうか。」と対になっていて、確かに、ある時期までは、そのような作品が結構あったように思うんですが、(今ではほとんどなくなってしまった)原因が僕もまだよくわからなくて、Arduinoが普及したくらいから、大学とかでも僕らの周りとかも、あんまりインタラクティブな作品を作る人がいなくなっちゃったんですね。一つには、僕自身の経験で言うと、それまではArduinoとかPICで作品を作っていたのが、全部、iPadで置き換わっちゃったんですよね。つまり、iPadにはいろんなセンサがついていて、例えば、スピーカもあって、画面もあって、、いろんなことが一通りできちゃうんですよね。じゃぁ、これでいいじゃんてなってしまった瞬間があって。もしかしたら、そういうふうに何かに置き換わっちゃった可能性というのはあると思うんです。」
「で、おそらく、今のコロナの状況というのが、望むにせよ望まないにせよ、以前の状態が、野蛮な過去の歴史として葬り去れらる可能性があると思ったんですね。在籍中の多摩美では、食堂とか教室内とか普通にタバコが吸えたんですが、今では、それが、すごく野蛮なことになってしまっている。たった10年で、一切が変わってしまっているわけで、、今後、何が元に戻るかとか、何が元に戻らないかとか、まだ全然わからないんだけど、でも、何かがもとに戻らないはずなんですよね。それが、これからの作品の作り方に、すごく影響してしまうとしたら、どうしたらいいのか、何が起きるのか、、そんなことを、ちょっと考えているんですけれど。」

◯ 小鷹

「今の谷口さんの話はすごくリアリティーがあって、僕の(学部3年生向けの)専門の授業は、実は、狩猟最終民の話から始めるんです。それこそ、そこには、忘れられてしまった人間の一つのフォームがあったわけですが、実のところ、遺伝子的には僕たちは、いつでもその時に戻れるわけです。生まれた時から、狩猟最終民の文化で育てられれば、普通に適応できてしまう。でも、この種の(人類学的な)切断は本当に決定的で、もうどうにもならないわけです。まさに、先程のタバコの例もそうですけれど、世の中「クリーン」な方向に向かうのは本当に簡単だから。で、そのように忘れられてしまったものに対して、どのようにアプローチするのかというのも、美術の重要な役割であると思っていて、それに関連していうと、僕の水野さんに対する質問なんですが、僕たちはインターネット以前の世界を知っていて、だからおそらくポストインターネットというのは、僕はそこまで詳しくないですが、インターネット以前にはあったもので今では忘れ去られてしまったものを、何かしらの形で引き上げるというか、つつくことによって、今の現実(の偶然性)を照り返すような性格を持っていると思っています。そうすると、インターネット以後に生まれた人間が、いかにポストインターネットの制作が可能なのかという点は、今の話とリンクして、ぜひ水野さんに聞いてみたいことです。」

小鷹の質問

一般に「ポストインターネット」の作風でくくられれる作家の多くは、インターネット以前の世界に生まれ、インターネットの登場に伴う世界の決定的な変容を原体験として刻んでいるように思います。それでは、インターネット以後の世界に生まれた世代の作家に「ポストインターネット」の制作は可能なのでしょうか。

◯ 水野

「これ回答しにくいな、と思ってて、あらかじめ考えていて、テキストを書いてあります、、(笑)。制作は不可能だと思います。技術的に、生まれる以前のものと比較できないと、それは難しいだろうと。それはポストインターネットの問題に関わらず、何かしらのテクノロジーが更新された時の以前以後というのは、常にそうしたことが言えるんだろうなと思います。インターネット以後に生まれた人は、勉強して「ポストインターネット風」なものはつくれるかもしれないですが、ポストインターネットそのものというのはつくれないと考えます。それは、テクノロジーと共に、認識はアップデートしていくわけで、ある一定の前提条件のもとで出てくる表現というのは、必然的に、そのときにしか生まれてこないだろう、と私は考えているからです。私自身もインタフェースやテクノロジーの前提がズレてしまった、自分よりも若い人たちの作品がわからなくなってきています。、このことは作品を考える上で、自分の中ですごく恐怖とか難しさを感じている点です。」
「一方で、「死」のように、いくらテクノロジーが変わっても、捉え方が変わらない問題もあるかもしれないので、普遍的な問題に関心がいくのかもしれません。死も、不死が技術的に可能になったら、その意味が変わるのかもしれないけれど。 」

◯ 小鷹

「僕は、この点について、かなり怪しいと思っていて。僕の主観的な印象なのですが、人文系とか美術系には「死ぬものこそが人間だ」というような(注:死を基点として人間を特徴づけようとする)人間観があって、僕も多分こっちに近いんですが、工学系の人たちの多くは、「死は乗り越えるべきもの」と考えているようなところがあって、もっというと「死ななくなることを、人間のある種の到達」と捉えている気がしてます。とりわけ工学系の近年のVRの使われ方とかを見てると、そのような感じが強くしていて、この問題は、人文系と工学系の間の、すごく危ない、大きな分断になりそうだという印象を持っています。」

◯ 水野

「合成生物学などに依拠すると「生命」は設計できるけど、「死」は設計することはできない、「死という概念は無い」という話もあったりします。そうすると、「死」を設計できないという認識をテクノロジーや科学から提示されることによって、「死」というものは変わってくると思うんですが、そうしたテクノロジーや科学の実践や考えを前提にして、人文系とか美術系の間で「死」そのものの現象の捉え方が本質的に変わっているのかに興味があります。あるいは「死」が本質的には変わることがなく、単に語り方としての解釈だけが変わってくるのか。「死」に代表されるような普遍的と考えられている現象や概念と科学やテクノロジーによってどのように変わるのか、変わらないのか、ということのなかで、同時代のアートの作品を考えるということは何を意味するのかということは、、今、自分の中でひっかかっているところです。」

おわりに

この後、聴衆からの質疑を経て、3時間に及ぶトークを終えた。
本ゲストトークでは、「気持ちいい」と「気持ちわるい」の体感を補助線に、科学と美術のコンテクストが分け隔てなくぶつかり合う稀有な議論の場を設定することができたように思う。近年のメディアアート作品において暗黙的に了解されていたであろう、主観における特徴的な体験の機微に対して、複数の観点より議論の種を撒くことができたという自負がある。こうした知的空間を生む触媒となっていただいた、谷口暁彦氏と水野勝仁氏に対しては感謝の念に堪えない。また、コロナ禍にもかかわらず、愛知県内外から集まり、長時間にわたる議論に熱心に耳を傾けていただいた来場者(アーティストの割合が非常に多かったのが印象的でもあった)の方々にも感謝の意を表する。

『Merge Nodes』(Joe Hamilton、2016) [2 / N]

ディスプレイ内部に醸成される「過剰な現実」

 はじめに、ある空間の放つ訴求力について

下の8つの画像(S1 - S8)は、Joe Hamiltonの『Merge Nodes』の約3分間の時間の中でも、個人的に、体感として最も直接的に強く"えぐられた"と感じた場面の時間推移に対応するものである。

 

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Eight screenshots from『Merge Nodes』in 2:00-2:07

このシーンでは、何の変哲も無い岩山の映像の一部が、パネル状に段階的に切り取られていき、その切り取られた矩形から、紫陽花の瑞々しい群集の空間の全貌が次第に露わになっていくというものである。ここでの体験のエグさは、まず何よりも、「画面の奥へと一気に空間が開けていく感じ」のリアリティーの強さにある。加えて、そのような空間性に関わる感覚に付帯するものとして、切り取られた矩形の奥へと片手を突っ込み、その隙間からのぞく乱舞する草花の感触を無造作にまさぐろうとするような、潜在的な行為に対する確かな予感がある。これらが総体として、紫陽花の空間が放つ瞬発的な訴求力を支えている。

ここで適用されているトランジッションの手法自体は映像編集としてそれほど目新しいものであるとは思えないし、そもそも、作品全体を見渡してみると、この紫陽花のシーンとほぼ同じトランジションを適用している場面は、複数見つけることができる。しかし、それら他の場面では、紫陽花の空間に対して得られたような特別な体感は生まれていないように思える(近いと感じるものはあるが)。なぜだろう。


射抜かれた平板な空間、その先に開かれる時限付きの奥行き

以下、必要に応じて、剥がされる側の岩山の空間を(空間P)、剥がれた先に露わとなる紫陽花の空間を(空間Q)と記す。

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(空間P)と(空間Q)

前記事で提起した概念である「主空間」(特定の時点において観測者の身体イメージが定位されることの許された、唯一の空間の座)をここでも援用すると、岩山の映像がパネル状に剥がれていく過程で、(空間P)が主空間である状態から、(空間Q)が主空間である状態へと時間的に遷移していることは間違いない。ただ、このような遷移自体は、どのような空間の組み合わせにおいても等しく生じるわけで、むしろ重要なのは、この主空間の主観的認知に関わる時間的カーブの性急さである。具体的には、問題となるこのシーンでは、こうした主空間の切り替えが、画角全体に対する(空間Q)の面積の配分増に応じて徐々に進行するというのではない、という点に注目したい。実際、まだ二、三のパネルが剥がれただけの(S1-S2の近辺)、割合としては画角全体の10%ほどを充填できているに過ぎない条件下で、しかし、そうした(空間P)に穿たれたわずかな切れ目から、(空間Q)は、自らに与えられるべき主空間に対する有資格性を、性急に主張してくるのである。端的に言って、この(空間Q)の訴求力の大きさは、面積の配分比から期待されるものとしてはあまりに不釣り合いである。 

さらに重要なことには、この(空間Q)の訴求力は、画角全体を紫陽花の絵が占めるようになるとき(S6の近辺)、つまり(空間Q)が、他の空間からの邪魔を一切受けることなく主空間の座に落ち着いた段階で、むしろ消失してしまうのである。その後、紫陽花の絵が、別の空間によって再び覆い隠されていく際にも(S7-S8)、例の訴求力は依然として失われたままである。つまり、この場面における「エグさ」は、(空間P)から(空間Q)へと主空間が移譲される過渡的状態において、時限的に醸成されているものなのだ。実際、紫陽花の空間の胸のすくような奥行き感は、紫陽花が画角全体を占めるようになると消失し、一枚のポスターのような平板な印象に切り替わる。そして、この種の「平板さ」とは、当初、パネル状に剥がれていく(空間P)に対して抱いていたものと、実は、ほとんど同じものである。

以上の二つの問題系は、半ば独立しつつ、半ば絡み合っている。すなわち、部分的に穿たれた穴から控えめに露出されることが、むしろ訴求性を高めるような空間としての性質を(空間Q)が備えている、そのような理路が働いていると考えたい。どういうことか。(空間Q)には、花弁・葉・茎の無数の折り重なりがあり、その節々に、長く伸びる棒が貫通できるような(あるいは、長い棒を貫通させたくなるような)空隙が至るところに存在する。例えば、誰某が、そんな紫陽花の群集のある表面にぐっと視点を寄せるようなことがあったならば、不可避的に、その奥へと分け入りたくなる衝動、あるいはその奥に何があるかを見定めたくなる衝動に駆られるだろう。この種の衝動は、動物一般の認知的な諸原則(e.x. アフォーダンス)として規定され得るものである。そして、(空間P)の部分的な剥がれ、および(空間Q)の部分的な露出は、(この二つの事象が正しく時間的に同期して生じることで)そのような衝動を極大的に増強するのである。それは例えば、、、映像を見るものの視線が、平板化した(空間P)の一つのパネルを、まるでピッチャー用の的当ての1つのパネルを目標とするような要領で射抜き、その射抜かれた矩形の空白から、さらにその先の紫陽花の群集間の入り乱れたわずかな隙間を、多少の葉片や花弁を遠慮なく切り落としながらもするすると抜け、そのさらに向こう側にまで到達していこうとするかのようでもある。そして、これまで暗黙の前提としてきた、「(空間P)に(空間Q)が貼られる」ではなく「(空間P)が剥がれて(空間Q)が現れる」という印象が優位となる理由についても、このような連想との親和性から説明できる。 


ディスプレイ空間にも物理空間にも収まらない、失われた奥行きの正体

この紫陽花の場面を適当なディスプレイ上で、全画面表示モードで再生しているとしよう。(空間P)であれ(空間Q)であれ、それらがディスプレイと視聴者の関係の中で主空間として作用している時、その空間は主観的な水準で奥行きを生み出していることになる。ところで、S1-S4の辺りで(空間Q)に感じられていた特別な奥行き感は、(空間Q)が主空間に昇格することによって(S6近辺)、むしろ失われるのだと先に指摘した。無論、S6にも素朴な意味で奥行きは存在する。この点については強調しても強調しすぎることはない。しかし、S1〜S4で感じられていた奥行き感と、S6で感じられる奥行き感は、もはや別のものである。ここで失われた奥行きとは何だろうか。

前記事の「奥行きの階層性」の議論を引き継ぐならば、現実の物理空間で感じられる奥行きと、ディスプレイ空間の中で感じられる奥行きは、相互に階層的な関係にある。すなわち、ディスプレイ空間における空間性は、奥行きのある物理空間の中で規定される平板な支持体の面に沿って展開されるものであり、この(一つ上の階層にある物理空間上の)支持体の存在を半ば「忘れる」ことによって、ディスプレイ空間は観測者にとっての主空間へと昇格する。この意味で、S6で感じられる奥行き感は、以上で示した通常の意味でのディスプレイ空間の奥行きに対応していることがわかる。としてみるならば、(空間Q)が主空間となる過程で失ったものは、(ディスプレイを主とするような)主空間としての奥行きではなく、その一つ上の階層であるところの物理空間としての奥行きなのだとは考えられないか。

実際、S1から S4の遷移において(空間P)は平板化し、まるでポスターのようなペラペラな素材であるかのような印象を与えるようになる。この「平板さ」とはまさに、主空間から締め出された映像の平面的な土台として作用する「透明な支持体」に対する質感のことであり(前記事を参照)、この想像上の「透明な支持体」が、ディスプレイの「物理的な支持体」と位相的に重なることで、「透明な支持体」の射抜かれた先に開かれた風景(空間Q)が、ディスプレイの物理的な向こう側として感覚されるのではないか。そして、(ここで少し矛盾したことを言うようだが)この「物理的な奥行き」は必ずしも、文字通り物理世界の奥行きそのものと知覚されるわけではない。ここで指摘している「物理的な奥行き」とは、あくまで、ディスプレイ空間を主空間としている住人にとっては、原理的に不可視な次元のものが現実に滲み出したものとして感覚されるものであり、そのような、現実を現実たらしめているより生々しい場所への接近は、むしろ、ディスプレイ内部では"過剰な現実"として立ち現れてくるだろう。そして、この「現実の過剰性」こそが、紫陽花のシーンのエグさの正体なのではないか。

この過剰な現実に適応してしまったディスプレイ空間の住人にとって、もともとの現実のリアリティーは、その強度において物足りないものと感覚されるかもしれない。(空間Q)が主空間の座を射止めたところで、ディスプレイの中で構成される空間性に対する奥行き感が減退したように感じられるのは、こうした事情によるものと考えられる。


「現実」が、何らかの事情で一旦「過剰な現実」として感覚された結果、再び元の「現実」に戻った時、それが「平板な現実」として感覚される、、この種の時間的進行の汎用性について考えてみたい。その種のモデルは、様々なディスプレイによる映像表現や現実の病理の理解に対して有効なのではないだろうか。(後者の問題として)例えば、物理世界において、離人症などが生じる前段として「過剰な現実」に相当する何らかのフェーズが存在するのではないか、そのような連想と対応する。

 

Merge Nodes from Joe Hamilton on Vimeo.

『Merge Nodes』(Joe Hamilton、2016) [1 / N]

Merge Nodes from Joe Hamilton on Vimeo.

 

「主空間」の座をめぐる闘争、奥行きの階層、「透明な支持体」の破れ

 

Joe Hamiltonの『Merge Nodes』、前々から気になっていたのだけれど、実写映像を扱ったポストインターネット系の作品体験の異質さとしては、あらためて、群を抜いているな、と思う。 


 実写を見るとき、観測者はその中に自らの視点を定位させようとする。没入感や空間性と呼ばれる指標は、そうした一人称体験の強度と関わる。したがって、この種の環境にも「意識の科学」にお馴染みの制約が適用される。 

意識ある脳は、二つの点火を同時に経験することはできず、一時にはただ一つの意識的な「かたまり」を知覚できるに過ぎない。
(p188, 『意識と脳』スタニスラス・ドゥアンヌ) 

僕自身は、その種の注意に関わる一般制約のこと「直列的認知限界」と呼んで整理している。「直列的認知限界」を空間性に関わる主観定位問題に適用するならば、 「ある瞬間において、視聴者が自らの透明な身体を全的に投影できる実写空間は高々一つである」と定式化できる。これは、直感とも合致しているように思う。一度に複数の座標系に身を置ける者など(たとえそれが想像の水準であっても)いないのである。


 さて、このような、ある時点で、観測者の身体イメージが投射されている空間を、以下では「主空間」と呼ぶことにしよう(「主空間」の「主」には、<主要な>という意味と<主観的な>という二つの意味が賭けられている)。一つのディスプレイに、一つの実写映像が投影されている限り、その単一の映像は、観察者が定位しようとする空間の座を常に占有できるわけで、わざわざ主空間なる概念を持ち出す必要もないだろう。他方で、『Merge Nodes』のような、複数の実写映像が同一の画角の中で並列的にせめぎ合う様な環境においては、主空間の座をめぐって、複数の空間による(ときに)壮絶な闘争が繰り広げられることがある。以下では、一枚の具体的なイメージ(画像1)を題材にして、その闘争の経緯を追ってみたい。

 

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画像1:Screenshot of 『Merge Nodes』at 3:02

Vimeoのサムネイル画像にも使われているこの印象的なカットは、仮想的な視点から地続きの屋内空間と、海越しにビルが立ち並ぶ都市空間、そして、雪解けの残る山麓の屋外空間の、三つの主要な要素から構成される(と、ここでは単純化しよう)。以下では、この一枚の画像に漂う不気味さの由来について、独自に定義した様々な心理的概念を補助線として、読み解いていきたい。まず、説明のため、それぞれの空間について、(空間O)(空間A)(空間B)の名を与えるとともに、二つの空間を分割するフレームに、便宜的に「A1」「A2」「A3」「B1」「B2」「B3」という記号を付す(画像2)。

 

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画像2:3つの空間、6つのフレーム

 

一見して、(空間O)が絶対的な主空間を構成することについては、ゆらぎようのない主観的現実であるように思える。 そのうえで、注目したいのは、(空間O)の外界へと通じる木枠越しに見える(空間A)と(空間B)とのリアリティーの差異である。僕には(おそらく僕だけでなくほとんどの人が)、(空間A)は(空間O)と隣接しており、したがって(空間A)と(空間O)は同一の空間系に属するものと感じられる。他方で(空間B)は、(空間O)に設えられた、複数のフレーム(「B1-3」)に貼られた透明な膜上に投影された「ここではないどこかの」映像であるように見える(記号の付されていない元画像である画像1に戻って、読者自身も同じような印象を持つかどうかを確認してほしい)。この種の、主観的な水準でのみ想定される、映像の出力面あるいは投影面として機能するような「透明な膜」を、以下では統一的に「透明な支持体」と呼んで、より深く考察していきたい。

 

(空間A)は、主空間にとっての「ここ」を共有する空間であり、したがって(空間A)は(空間O)とともに主空間を構成している。他方で(空間B)は、主空間にとっての「ここではないどこか」の空間の投影である。つまり(空間B)は主空間ではなく、主空間に設えられた「透明な支持体」の上に出力された投影物なのである。確かに(空間A)にも(空間B)にも奥行きは感じられる。しかし、この奥行き感には質的に決定的な差異があるように思う。(空間B)における奥行きは、(空間B)を主空間とするような座標系の内部に限って(つまり(空間B)の中に入り込むことによって)感覚されるものであり、(空間O)を主空間とするような通常の空間知覚の運用においては、(空間B)の奥行きは「透明な支持体」によって切断されてしまっている。端的に言えば、(空間A)は、窓枠の奥に"現に"存在する空間であるが、(空間B)は(空間O)の中に素朴な意味で存在していないのである。実際、(空間B)の「透明な支持体」である「B1-3」の向こう側には(このカットに限って言えば)(空間A)が存在すると感覚されるだろう。以上の意味で、(空間A)と(空間B)に構成された「奥行き」は、入れ子状に階層化されているのだ。 


 さて、この画像1において、(空間A)が主空間を占め、他方で(空間B)は主空間から締め出されてしまっているのはなぜか。おそらく、ここでは風景の内容の差異は問題ではない。ためしに「A1-3」を全て黒塗りにしてみると(画像3)、(空間B)と(空間O)は突如、何の問題もなく同じ空間を共有しているようにみえるだろう。人によっては、(空間O)が登山者のために設えられた休憩小屋であるかのように文脈化されるかもしれない。 

 

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画像3:(空間A)を黒塗りにすると空間Bが主空間に昇格する

いずれにせよ、この簡単な実験によって、画像1における(空間B)は、(空間O)とより強い親和性を持つ(空間A)の存在によって、「直列的認知限界」の壁に弾き返される格好で、主空間の座から締め出されていたという事実を確認することができる。 


 それでは、(空間A)と(空間O)の親和性とは何か。画像2における右端のフレーム「A3」に注目すると、そのフレームに貼り付いていると想定される「透明な支持体」は、フレームの手前側から向こう側へと連続する地面によって、"突き破られている"ことがわかる(画像4)。

 

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画像4:"「透明な支持体」の破れ"

 

こうして「透明な支持体」であるところの「A3」の膜は消失し、「A3」の向こう側とこちら側は、相互に地続きな同一の空間を構成することになる。(空間A)が主空間の座を手繰り寄せているのは、以上のような"「透明な支持体」の破れ"の効果に由来していると考えられる。実際、「A3」の奥にはみ出した地面を黒塗りしてしまうと(画像5)、途端に、"主空間をめぐる争い"に関わる(空間A)の圧倒的な優位性はぐらついでしまうようにみえる。

 

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画像5:「A3」へと伸びる地面を黒塗りにすると、(空間A)と(空間B)は拮抗して主空間の座をめぐって争うようになる

この状況では、「A3」越しにみえる(空間A)が、「透明な支持体」の上に投影された映像であるかのように"あえて"錯覚することは、元画像(画像1)よりもずっと容易であるように思う。さらに、そのような見方を維持したまま(空間B)に注意を向ければ、(空間B)こそが主空間であるというような感覚を得ることもまた可能であろう(このとき、「B1-3」に存在していた「透明な支持体」は主観的な水準で突き破られる)。あるいは、(空間O)が、あらゆる現実空間から隔離された場所であり、そのような孤独な空間において、全く別空間である(空間A)と(空間B)の映像が、複数のフレームに同列的に出力されている、、そのように感じることもまた可能かもしれない(この場合、全ての平面に「透明な支持体」が貼られていることになる)。いずれにせよ重要なことは、「A3」からはみ出した地面を塗りつぶすという簡単な操作によって、(空間A)と(空間B)との主空間の座をめぐる関係に、一気に多義性が生まれることである。このような多義的空間にあっては、(空間A)も(空間B)も、明確な序列関係を持たず、主空間に昇格するポテンシャルを同列的に有しているのである。 


 このように、複数の"潜在的現実"が並列的に呈示され、意識の向け方によって主空間の座が時間的に切り替わる体験は、端的に言って極めて不気味である。この種の独特な緊張感は、部分的に塗りつぶしなどの操作を行う以前の元画像(画像1)がもともと潜在的に孕んでいた不気味さを、極大的に濃縮したものであると考えるべきかもしれない。つまり、元画像における不気味さとは、明確な認知手がかり(「透明な支持体」の破れ)によって主空間の座に安定的に君臨している(空間A)の影で、それでもなお、(空間A)の足元を掬おうと窺う(空間B)の静かな意思の漏れなのである。

 

(もう少しつづく、多分)

『address』(谷口暁彦、2018、展示「ハロー・ワールド ポスト・ヒューマン時代に向けて」より)

 

谷口暁彦 address 2 @水戸芸術館

 
一見すると、単なるモザイグ画のようにみえる。けれど、少しでもその場に留まれば、「単なるモザイク画」という言葉で済ませてしまうには、あまりに手強い緊張が走っていることに気づくこととなる。
 
イメージの中で、風景を「見ている」主体の痕跡が消しようもなく宿ってしまっていること。そして、その何者というのが、ひどくぎこちないかたちで視覚イメージを立ち上げているようにみえること。(だから)『address』の鑑賞体験を異様せしめているものの一つの核には、風景イメージから逆照射された、それを見ていると想定される主体に付随する「ぎこちない視線」がある。そのような体感がまず先に顕れる。
 
その視線は、ある特定のエリアで固視微動を繰り返したのち、気まぐれにあさってのポイントへと焦点を結び直し(サッカード)、また固視微動を繰り返す。しかし、それは、サッカードという言葉で連想される速度感からは劇的に遠い。
 
いかにも重たい身体をひきずりながら、何かしら探し物でもしているかのように周辺をうろつき、しばらくして、何かを探し当てたのか、それとも特に望んだ収穫がなかったからと、その場所に見切りをつけ、それから(ときに十分すぎるほどの)休養を挟んで、間欠的に新たな探索ポイントへと向かう。超低速のサッカード。そして、そのたびに新たに立ち上がる「間欠的な自己」。
 
そのようにして、一枚の風景写真は、不可避的に、互いに分離された複数の時間的体験へと分節化される。そのうえで、分節化された一つの時空のさらに奥へと潜っていくと、相互にピタリと接合することのない単一のセルが、自らこそが風景の最小単位であることを強く誇示してくる(実際『address』には、作品との物理的・心理的距離に応じて、風景の時間的階層が段階的に現れては消える、という興味深い視覚体験がある)。

谷口暁彦 address 1 @水戸芸術館

 

時系列の上で間欠的に発動するスケールフリーな身体の営みが、フラットな二次元空間にフラクタルに畳み込まれていること。(もう少しやわらかく言えば)複数の時間的体験が、相互に拮抗した状態で一枚の写真の中に圧縮されている、ということ。この点を踏まえるならば、『address』の風景写真に漂う緊張の正体は、間欠的に立ち上がった複数の「見る主体」の間で成立している(あるいは成立しなかったりする)「綱渡り的な接続」にこそ見出されるのではないか。
 
全体としての風景が、拮抗する複数の住人(=「見る主体」)の間に成立するギリギリの和解によって、かろうじて立ち上がるということ。あるいは、全体が瓦解した先に躍動を始める住人個々のユニークネスが、しかし、再度、風景全体(「大きな住人」)へと統合する過程へと奉仕させられる、そのような自己否定の危機に常時晒されているということ、。
 
「見る主体」の<ぎこちなさ>に伴う時間の遅れは、「見る」という行為を、むしろ一般的な意味での「描く」行為に漸近させているようにさえみえる。その変換作用は、鑑賞者が緩やかな解像度で作品に対して注意を向けようとする時に、風景全体が、突如、(一人の人間が相応の時間をかけて仕上げていく)風景画のようなムラのある質感を持ちはじめることと無関係ではないはずだ。だから、『address』は、時間を空間に変換する装置であると同時に(であるゆえに)、「撮影する」という行為を「描く」という行為に、そして(異なる時間に撮影された)複数の写真を絵画へと変換する装置でもある。
 

address

なお、『address』における<ぎこちなさ>が、使い勝手の悪いインタフェースを使って監視カメラを遠隔的に動かしている際に発生しているものなのだと仮定するならば、その種の、<人間と機械の接合の悪さ>こそが、時間の遅れを不可避的に生み、結果的に、「奥行きのある私」を立ち上げるための契機となっている、といえるのかもしれない。と、そのような観点から、情報空間におけるリアルタイム性(が何を疎外するか)の問題を考えるのは、とても示唆に富んでいるようにも思う。 
 
(写真は、すべて、小鷹がギャラリーにてiphoneで撮影したものです)

『インタビュー中に跳ぶ奴』(ジャルジャル、2018)

試合で重要なヘディングゴールを決めたと思われるサッカー選手(福徳)と、その選手からコメントを引き出そうとするインタビュア(後藤)、スポーツの試合終了後の典型的なヒーローインタビューのやりとり。
 
後藤「素晴らしいゴールでしたね」
福徳「ありがとうございます」
後藤「狙ってたんでしょうか」
福徳「ここにボールが来てくれたらいいなってとこにちょうど来たんでヘディングでバンと決めましたね」
後藤「2試合連続ゴールということですけど」
福徳「そうですね、、まぁ、あの、2試合ともヘディングで、、
・・・
・・・
 
 
福徳、ヘディングの解説をするのに合わせて、少し抑えめのジャンプで実際にヘディングの仕草を示す。当初、助走運動的なフットワークであったのが、徐々に、ホッピングのように上下の動きが大きくなり、やがて(通常のインタビューの光景としては明らかに不自然な)機械的な跳躍の繰り返しへと変わっていく。
 
その状態で、しばらくインタビューは進行していくが、ある時点で、(福徳の声を拾う)後藤のマイクを持つ手が福徳のジャンプの上下の動きと同期するようになり、次のターンでは、後藤も福徳と同じように機械的なジャンプを繰り返すようになる。
 

 
何かが<はがれた>という感じ。
並列的なAとBというモードがあって、AからBに切り替わったというよりは、(A)という状態であったものから、括弧が剥がされてAが露出された、という方が近い。
 
しかし、ここで露出された真の姿なるAは、例えば、トラウマ的な起源を探り当てたような「自分探し」的なカタルシスから程遠い、ただ一定のリズムで跳びはねているだけの、極めてニュートラルな何かであり、だから、どちらかと言えば「括弧を剥いだら中身は何もなかった」という方が体感に近い。
 
あるいは、括弧の中には、正規文法でいうところのワイルドカードにあたる、アスタリスク*(=何者とも入れ替え可能であるがゆえに何者でもない記号)が入っていた、というような表現も可能だと思う。
 
この観点から、2人の間にゆるやかな同期性がみられる、という点がとても興味深い。実際、2人のジャンプの同期しているあり様は、機械的でありながら、どこか、生命的なるものの兆しを感じさせるものであるように思う(アスタリスク性は、それを可塑性と読み替えれば、生命的な自己組織化をつくりだす基底でもあるという点で、記号的なるものと生命的なるものの接点に位置付けられる何かでもある)。
 
だから、カッコから剥がれて漏れ出してきたものは、実のところ、あの生命的知性の原基として名高いドロっとした粘菌だったのだと、そして、福徳から脱出した粘菌が、後藤の中にいる粘菌を引きずり出したのだと、そのように2人を眺めてみると、また味わい深さが増してくる。
 

 
さて、ここで露出された匿名体には、同期性とは別に語られるべき重要な側面がある。それは、ゆるやかに同期しながらホッピングを繰り返す2人が、定期的に、自分の職業に関わる何かを(やはり機械的に)口に出す点にある。
 
後藤「インタビュー」
福徳「サッカー選手」
後藤「インタビュー」
福徳「ヘディング、プディング」
後藤「毎日インタビュー」
福徳「ヘディング、プディング」
(福徳、左へ見切れる)
後藤「明日もインタビュー」
(後藤、右へ見切れる)
 
 匿名的な状態にあって、自分の職業の名前(代表的なプロファイル)を口に出す、というのがなんとも示唆的であるように感じる。僕には、これが、インターネット上で形成されるパーソナリティーの手続き的世界観に肉薄している何かであるようにみえる。つまり、2人は、まさにあの(ホッピングへと展開する)局面において、コンテンツ画面から、個々のプロファイルを集約する場所である「設定モード」に移行したのだと、こう考えることはできないか。
 
パーソナリティーは、コンテンツ上の各種の振る舞いの中に浮上していくものであるという点を踏まえると、「設定モード」そのものは、いくら、その中に詳細な情報が書き込まれていようが、パーソナリティーを持たない(というか持てない)。「設定モード」は、やはり、「何者とも入れ替え可能」であるところの位相である。
 
だから、この光景は、後藤アカウントと福徳アカウントを管理する何者かが、コンテンツの中に突如介入し、設定が変えられようとしている、まさにその現場であると想像すると、なぜ、僕たちが、あの光景に対して、少なからずの寒々しさを感じてしまうのかがわかる気がするのだ。

『jump from』(谷口暁彦、2017、展示「超・いま・ここ」より)

okikata.org

 

ようやく落ち着けたので、昨日の谷口さんの展示のこと。『jump from』の体験が突出して強烈だった。あそこで試みられていたのは、「現在」と「過去」の往復というよりも、「自分」と「(自分)」(←括弧つきの自分)の往復だった、というほうが、僕としてはしっくりくる。
— kenrikodaka (@kenrikodaka) 2017年4月19日

画面が切り替わる瞬間、自分自身を含む所与の空間が切り取られて、身体ごとモニタの中に「嵌め込まれる」ような感覚があって、なんというか、それがすごく暴力的(david lynch的なカットの切り替わりとでもいうような)な質感の伴うものだった。
— kenrikodaka (@kenrikodaka) 2017年4月19日

切り替わった画面の中で時間が「ヌメッ」と遅く流れる(これが意図的かは聞くのを忘れた)ことで、なんだか(マリオも自分も)身体がつっかっかてしまう感じがあって、あのときの「嵌め込まれる」感は、その感覚的な不協和を解消しようとする一つの認知的な効果だったのではないか。
— kenrikodaka (@kenrikodaka) 2017年4月19日

つまり、「身体ごとモニタの中に入っていく仮想運動」を想定したうえで、そうした仮想運動に伴う時間遅延や物理的干渉の効果として「ヌメッと」感が発生したのだという整合的な物語を、(少なくとも僕の)無意識が創作していたのではないか、と。
— kenrikodaka (@kenrikodaka) 2017年4月19日

当然、このような仮想運動と幽体離脱は近いところにあるはずで、特にこの作品で重要だと思ったのは、体験者は、画面の切り替わりのタイミングを十分に予測することができない(予感だけがある)という点で、これは、幽体離脱のほとんどの体験者が、それを意図的に制御できないのと似ている。
— kenrikodaka (@kenrikodaka) 2017年4月19日

あるいは、マリオの動きを止めて、全神経を集中させて、来たるべき仮想運動の瞬間を捕まえようとしても、その瞬間は永遠に訪れない。それは、目のゴミを捕まえようとするとかえって逃げてしまう感じと似ているし、まどろんだ意識の状態でしか幽体離脱が起きないのとも似ている。
— kenrikodaka (@kenrikodaka) 2017年4月19日

この作品のさらに深遠なところは、そもそも通常の操作においても、プレイヤーであるところの「自分」は、括弧つきの自分「(自分)」のイメージをマリオに託しているわけで、だから、自分が画面に嵌め込まれた際に目に入ってくるマリオは、「((自分))」として示されるような対象なわけだ。
— kenrikodaka (@kenrikodaka) 2017年4月19日

別の意味では、プレイヤーは、「画面に嵌め込まれる」というアクロバティックな仮想運動を通して、「マリオであるとはどういうことか」という問題系の深いところに肉薄することに、成功していたのかもしれない。「あのとき、自分はマリオであった」というような事後的な回想であったにせよ。
— kenrikodaka (@kenrikodaka) 2017年4月19日

『jump from』、あまりやりすぎて内部構造が見えすぎてしまうよりは、ドキドキした宙づりの状態でやめといたほうがいいと思って、実は、あまり長い時間プレイしてない。その判断は半分正しかったと思いつつも。もっかいやりたい。
— kenrikodaka (@kenrikodaka) 2017年4月19日

『変な奴』(ジャルジャル、2009)

コミュニケーションの自明性を抉られる体験といえば、、ジャルジャルのいくつかのコント(歌手志望でレコード会社に押しかけて歌わないやつとか)は、日常と地続きのところで『<あえて>(=制度化された虚構)の外部』を召喚している点で、やっぱり秀逸だなぁと思う。
— kenrikodaka (@kenrikodaka) 2015年9月8日

www.youtube.com

 


 


(備忘)このコントの秀逸な(かつ不気味な)点は、「歌わせてください」と言いながら決して歌おうとしない後藤の態度が完全なる「デフォルトモード」にあること。構造的には、ボケ(虚構)の中に、<コントの外部>(超現実)が埋め込まれている。 https://t.co/UdoTMM8XZt
— kenrikodaka (@kenrikodaka) 2017年1月30日


このコントを見ていて連想するのは、昔の「いいとも」で一般客が乱入してきたときのような放送事故的な状況。テレビの中に、テレビの外部が突如侵入してきたときの不気味な感じ。どちらも、暴力的であるというよりは、極度に「普通」な感じで(日常を装って)内部に侵入してくる点で共通してる。
— kenrikodaka (@kenrikodaka) 2017年1月31日

加えて、もう一つ秀逸な点は、最後、福徳が退場して後藤が一人で残り、後藤が『あんな奴に聴かせる歌はない、ここはレコード会社、誰かに届け、僕の歌声』と叫んだ後、再びデフォルトモードになるところ。そのボケは、ツッコミには決して届かない。送り先不明で発信される虚構。コントの外部。
— kenrikodaka (@kenrikodaka) 2017年1月31日

その場面で暗転してコントは終わるわけだけど、そこでもしも暗転しなかったら、、と想像してみるのは面白い。なぜなら、ツッコミのいない、何もに演じようとしない後藤だけが残るその舞台は、完全なる後藤のプライベート空間になってしまうわけだから。
kenrikodaka (@kenrikodaka)  2017年1月31日

 


 

このコントで、歌う気が全く無いようにみえる後藤は、しかし、福徳に早く歌えと迫られるなかで、数度首を振って「今度こそ」という仕種をしてるのがかえって不気味。ツッコミの規範に理解を示しながら、次の瞬間には、その真反対に瞬間移動している。 https://t.co/UdoTMM8XZt
— kenrikodaka (@kenrikodaka) 2017年4月10日

この両義性が一番顕著に出ているのがこのコント。面接の場で自分の名前を「おきんたまでかお」と言うが、その点以外は、全くの模範的な態度。その後の電話では、自らの過ちを認め、涙を流して謝罪。しかし、再面接で、また同じことが繰り返される。https://t.co/LiIIMkIgCa
— kenrikodaka (@kenrikodaka) 2017年4月10日

 

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後藤の魅力は、このような相反する(ようにみえる)複数の人格が、「多重人格」的に完全に切り離されているのではなく、複数の人格が一つの全体性の中に不仲なかたちで共存しているような、「統合的人格」と「多重人格」の中間的な位相の危うい人格モデルを、地で演じるところにあると思う。
— kenrikodaka (@kenrikodaka) 2017年4月10日

いや、ちがうな。規範レベルでは、明らかに相性の悪い二つの人格が、あたかも、お互いが何の矛盾も無いかのように、一つの人格の中で共存しているようにみえる点が不気味なんだ。
— kenrikodaka (@kenrikodaka) 2017年4月10日