『セザンヌの犬』(古谷利裕,2024)、その3
同じ素材が異なる場面で使い回される、悪びれることなどあるはずもなく
- ほとんど同じ視覚的素材が、異なるシーン、異なる人物の主観世界、異なる作品にまたがって、全く悪びれることなく使い回されている感じがある。
- 異なる人間が同種の構造の夢を見たり、同じ過去が回想されたり、、あるいは同じオブジェクトが異なる人物の部屋に配置されていたり、ということが頻発するのは、彼らが同じ舞台装置(ミドリガメ、クレーンにつられた板、ツノ、、)を共有していること、あるいは彼ら(あなた、兄弟、スタッフA、もう一人のスタッフ、動物、、)が一人の人間からの派生(片割れ)であること、そのようなことをとくに悪びれることもなく暗示しているようにみえる。
- 一人の人間の毎日の夢で、有限の記憶的素材が使い回されている感覚。人は、おそらく頻繁に同じ素材による夢を見ていながらも、そのことに気づくことはことはほとんど無い、、というようなことを考えた。まるで、ご長寿早押しクイズで、回答者に固有のワーディング(マグロ、かませ犬、五部刈り、、)が、日時をまたぐ問題で(問題の内容と無関係に)反復されたり、回答者間で、類似の音韻がこだましていくことが頻発していながら、そのことに対してご長寿が全く自覚がないように。
- 僕たちが、頻繁に同じ素材の夢を見ていながらも、そのことにあまり気づくことがないのは、もしかしたら「気づかない」のではなくて、夢は、そもそもが、同一の素材が使い回される場として定式化されているからではないか。
- ところどころ同一のパターンが反復されながらも、全体としては均一化していこうとする(区別を消失させていく)有様は、複雑系(スケールフリー、フラクタル)の世界観との親しさを強く感じる。古谷さんの最近の作品(表紙)の視覚的感触とも見事に符合する。
排便、糞便、小さな人間、小さな動物
- 糞便、排便、小さな人間、小さな動物、というモチーフがたくさん使われている。
- 排便は、私の身体から、「このわたし」が削がれたもの。ナムネス的な無感覚的な、神経を失った身体。自分から便が排出される際、その落差に対して、わたしは、事後的に、この「わたし」の起源を発見することができる。
- 鏡像段階(ラカン)と逆の関係。不完全な「自己未満」の身体(寸断された身体)への遡行。
- 『セザンヌの犬』では、例外的にわたしとあなたは、それなりに充実した対面的な(二人称的な)コミュニケーションが繰り広げられる。それでも、ギャラリーに置き忘れたハンカチを届けた日の後で、(二人が直接的に出会ったことの代償を払うように)「あなた」は、カバンの中のねじれた空間の中に閉じ込められる。そして、仕事机で「身長15cm程度のあなた」として、わたしと出会い直される。『二つの入り口〜』では、わたしは、あなたとミドリガメとして出会い直される。これらに、「糞便による自己の起源への遡行」との同種の構造が垣間見える。
- Drummed Headとの類似性(を強く感じるから、僕は、今回のイベントで展示を行うことを思いついた)。フロイトのフォルト・ダーの遊び。
観測者のいない世界で起きていること
- 人間(観測者)のいない世界で、もの同士が些細なインタラクションを起こす。配置が微妙にずれたり、何かが入れ替わったり、、ただし、その変動の前後で見た目はほぼ何も変わらないために、観測者にとっては「何も起こらなかった」ことと同じ。
- なぜ、それを「わたし」は知っているのか。なぜ、それを「わたし」は記述できるのか。なぜ、「わたし」(作者)だけが、観測者なき世界の視点を特別に独占できるのか。これは、どちらかというと小説原理一般の話?
- アイドリング時のキャラクターの動き(プレイヤーなきキャラクター)、主人公のいない夢。三人称視点でしか夢を見たことのない人の話。
- ゲームエンジンでは、カメラに映っていないシーンの処理は行われない。常にカメラ(観測者)からどのように見られているか、を把握し、見られている範囲で「全力を尽くす」。では、小説世界における観測者とは?
節操のないトランジッション
- 節操のないトランジッション、目的を持たないトランジッション、共感覚的な混戦(ただ物理的につながってしまった、という身も蓋も無い接続の感覚)、ピタゴラスイッチとの決定的な違い。
- 以前書いた、小林椋の作品に関する展評:
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https://bijutsutecho.com/magazine/review/18103
例えば、ある共感覚者にとって、数字の「3」は視覚的な「青」と抗いがたく結びつくが、その結びつきは恣意的なものでしかない。数字と色が結びつく解剖学的な根拠(領野の近接性)を指摘することは可能であるにせよ、「3」がまさにほかの色ではなく「青」と結びつかなければならなかったその根拠を説明できるような、いかなる深遠な理論もありえない。そもそも、こうした結合のバリエーションは共感覚者の数だけ存在するのであり、個々の結合のユニークネスは、端的に言って「そうなってしまった」の産物なのである。
小林椋の空間に漂う不穏な空気の起源は、ひとつには、この種の「端的につながっている」としか言いようのないような「剥き出しの接続性」にこそ求められるように思う(その意味で、展示空間において点在するカメラとディスプレイを電気的に接続しているケーブル類が床と壁を這うさまは、まぎれもなく重要な展示要素としてカウントされてしかるべきである)。実際、今作の一部を含め小林椋の多くの作品では、ディスプレイそのものの動きとそのディスプレイに映し出される光景の中の動きが、互いに無関係に、したがって印象としては極めて無防備に交錯する。それはまるで、自らの背後に意図せずして貼られてしまった映像に、ディスプレイ自身がまったく気づいていないかのようである。その種の空間軸の恒久的な捻れは、「映し出されるもの」から「映し出すもの」を分離し、ディスプレイが物体であるという生々しい現実を浮上させることになる。ひとまずは。
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『セザンヌの犬』(古谷利裕,2024)、その2
そのつど仮設的につくりだされる自演の世界でわたしはあなたとどう出会うべきか
『セザンヌの犬』の小説集では、「〜であるとする。」とか「〜であれば、〜のはずだ。」とか「〜と仮定しよう。」『〜と想像してみよう。』みたいな表現が頻出する。これは、いぬのせなか座の山本浩貴さんが、<空間ローディング>という言葉で指摘していたように、そのつど、未定義の環境に各種のオブジェクトを適当にレイアウトして、そこで仮設的に組み上げられたワールドを、所与の条件で再生(シミュレーション)してみようとするゲームエンジン的な世界観を連想させる。視点が人からモノへ、モノから人へ、と節操なく(?)移行するのも、ゲームエンジンにおけるカメラの視点操作(どのオブジェクトの階層下に置くか)と考えれば理解しやすい。
この「そのつど、つくられていく」感覚は、おそらくは、作者自身が小説を書きすすめていくプロセスと緩やかに同期している。そして、そのカラクリに対して、小説の中の登場人物であるところの「わたし」は、それとなく自覚的にふるまっている(ようにみえる)。さらにいえば、その構造は、小説の中で、「あなた」が、(その起源として)「わたし」の自作自演によって立ち上げられているらしいことにも対応している。要するに、小説の内部で「わたし」に対して「あなた」が召喚されることには、一人の人間が(登場人物に自分を託して)小説を描こうとする、その種の根源的なフィクションの構造が反復されている、といった具合だ。この意味で、「あなた」とは「わたし」によって描かれた小説そのものなのではないか。
以上を踏まえると、小説の中で「わたし」と「あなた」の主客関係が転倒し得るということは、小説(フィクション)の存在意義を考えるうえで極めて示唆的であるように思う。というのも、そうした転倒への開かれこそが、小説(書かれたもの)が書き手による自作自演であること、その種の構造的な「閉じ込め」から逸脱する回路を提供してくれるからだ。自分が「つくりだした」ものによって、自分が「つくりだされている」という錯覚が生まれること、そのような躓き・裏切りによって初めて、この世界の中に、自分がたしかに存在しているというリアリティーが醸成されるのではないか。そんなことを考えた。
比較的最近の作品『ライオンは寝ている』の中で(この短編、僕は特に好きかもしれない)、象徴的と思われる(わたしによる)語りのシーンがある。その場面の前段で、姉の前で犬のペルは三体に増殖する。その非現実的な出来事に対して、まずは、それが姉の「自分勝手な妄想」によって作り出されたことであることが指摘され、ついで、そもそもが、そのような想像をする姉が、この「わたし」によって想像されたものである、という自作自演の再帰的な構図が指摘される(この短編では、この種のメタフィクション的な記述が横行している)。この後で、しかし、「わたし」は姿の見えない「兄さん」に対して、以下のように強く語りかけるのだ。
兄さん!わたしは、ペルが三匹になるのを想像したのは兄さんなのではないかと思っています。その証拠に、よく見るとペルには小さなトナカイの角が生えているではありませんか。三匹のペルたちはトナカイの角をつけたままでふいに顔を上げたかと思うと、三匹揃って走り出し、その世界から消えてしまうのだ。そして次の瞬間、雪に覆われた真っ白な平面にあらわれ、またたくまに駆け抜けて去っていってしまったのだ。(P199)
この場面では、まずもって「兄さん」の想像が、「わたし」の制御から逸脱していることに対する強い感動が伝わる。「兄さん」が「わたし」の自作自演の外部に存在する自律した存在であることが、世界で起きていることの全てが「わたし」の想像であることの絶望から救ってくれたのだ(これもまた「わたし」と「あなた」との間で繰り広げられる主客転倒の一つのバリエーションといえる)。それでも、その気づきの直後に、ペルたちはまたたくまに世界から消失する。あたかも「わたし」が、(実際には出会っていないにせよ)そこで「兄さん」の秘密に、無防備に近づき過ぎてしまったことに対する警告であるかのように。
古谷小説の中で、「わたし」と「あなた」(あるいは兄であったり姉であったり)が直接に対面することに対して抑制的なのは、そうした出会いが、なんらか「あなた」の起源に関わる自作自演の現場を、白日のもとに晒してしまうからなのかもしれない。想像主との出会いは、「わたし」と「あなた」の区別を無効化してしまう。それは「あなた」の死を意味するし、「わたし」の外部としての世界が立ち上がる契機もまた手放すことになる。両者の出会いがあるとすれば、偶発的な、予期せぬ事故として、事件として「向こう側」から勝手に降ってくる、そのようなものでなくてはならない。それは、これから起きることではなく、起きてしまったこととしてしか表象し得ない何かなのだ。
少し強引であることを認めつつ、「からだの錯覚」の問題と絡めると、アバターの身体に自分の身体像を投影するフルボディ錯覚において、アバターと体験者の向きが対面になると、錯覚の効力は大きく損なわれてしまう(自分と無関係の誰かとなる)ことが連想される。あるいは、完全に鏡像になってしまうと、それは単に自分でしかない(自分の中に閉じ込められたままだ)。あなたが「あなた」の位相に留まるためには、繊細な距離感と、直接的な対面をしてしまうことに対する節度が要求される。
さらに言えば、対面しつつ「あなた」として出会うことを可能とする錯覚形態こそが幽体離脱(out of body experience)だ。なるほど、幽体離脱は、それが意図せぬ出来事として起きるからこそ、トラウマ的な効力を持ち得る。フルボディ錯覚と幽体離脱については、拙著の3章と6章で詳しく書いている。
『セザンヌの犬』(古谷利裕,2024)、その1
わたしでもよかったはずの「あなた」が、それでもなお「あなた」でなくてはならないのはなぜか
古谷さんの小説の際立った特徴の一つに、多くの場面で「あなた」が、小説空間の中の基点として主役のように立ち回ることが挙げられる。この「あなた」の感触は、いわゆる二人称小説?的な読者としての「あなた」、つまり現実世界の読者と物語世界の主人公とが交錯させられるような小説的手法のそれとは大きく違う(ようにみえる)。どちらかと言えば、その「あなた」とは、語り手である「わたし」とかなり近いところにある。というよりも、ほとんどの場面で、その「あなた」は「わたし」と言い換えても、ほとんど何の問題もないようにすらみえる。「わたし」でもよかったはずの「あなた」が、それでもなお「あなた」でなくてはならなかったとすれば、それは一体なぜなのだろうか。
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ほとんどの「あなた」は、わたしにとっての姉妹であり(実際に血がつながっているという意味ではない)、おそらく多くの場合、その逆もまた成立している。例えば、『グリーンスリーブス・レッドシューズ』で「姉」と名指されている主体は、他の短編の設定では「あなた」と呼ばれているような関係的人称と対応する。「あなた」が、一貫して兄弟姉妹として表象されることには、何らかの象徴的な意味が託されているはずだ(自分と他人のツガイのような存在としての「あなた」)。
ところが、「あなた」と「わたし」は、(少なくても常識的な意味での)二人称的な関係に乏しいと言わざるを得ない。その最たる証拠に、「あなた」と「わたし」との間で、対面的な意思疎通が図られる機会はほとんどない。そもそもが、「わたし」と「あなた」(姉)とは、ほとんど直接に出会うことすらない。あたかも、両者が出会うことによって、何らかの決定的な矛盾が露呈し、かろうじて成立していた「わたし」と「あなた」との二者的な緊張関係が瓦解してしまうかのように。
あるいは、あまり頻繁には訪れることのない「わたし」が基点となる場面においてもなお、「わたし」に起きていることは、まるで「あなた」に起きていることのような距離感で語られる。要するに、「わたし」という名の主体的位相が、そもそも「あなた」であると言って差し支えのない程度に、極度に離人的なのだ。
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『ふたつの「入り口」が与えられたとせよ』において、「わたし」と「あなた」が交わる場面を拾い上げてみる。
(A) だがあなたは、後ろ側のトイレにしゃがんだままでゆっくりと手を伸ばし、落下する女の子の手を掴むと、ぐいっと引き返し、そのまま自分の部屋に連れ帰った。その女の子がわたしで、そのようにして、わたしはあなたの部屋にやってきて、あなたとわたしは姉妹になった(P14『ふたつの入り口〜』)。
(B)わたしはそれをあの男がやったことだと思い込み、人のせいにする。あなたを呼び、またあの男が粗相をしたとさんざん愚痴を言ったあげく、片付けはあなたにやらせる。(P15『ふたつの入り口〜』)
(C) 水槽の隣にはミドリガメを買うための金盥がある。あなたはそのなかを覗き込む。ミドリガメを見る。そしてわたしも、あなたのことを見返した。目が合ったはずだ。わたしはミドリガメだった(P37『ふたつの入り口〜』)。
(A)と(C)において、たしかに「わたし」と「あなた」は出会っている。ただし、それは偶発的な事故として。(B)においては、「わたし」は、ばら撒かれた魚の片付けを「あなた」にさせているが、「あなた」がこれほど活躍する小説において、このような典型的な二者間のインタラクションが描かれる場面が数えるほどしかないことにまずもって驚かされる。そして、このような希少な場面ですら、「あなた」は単なる「わたし」の代わりに過ぎない。「あなた」が、対面的場面で、一人の主体として「あなた性」を発揮することはほとんど期待されていない。
「わたし」と「あなた」は偶発的にしか出会えないし、仮に対面的な場で何かを伝え合うことができたとして、そのような場面では、「あなた」は「わたし」の片腕であるかのように、完全に「わたし」に従属してしまう(故に、「あなた」は一時的に消失している)。要するに、二つの主体は同じ空間で同時に成立することが叶わない。同時に出会うことの許されない、「わたし」の中に孕まれた双生児的な何者か、、そのような「わたし」にとっての特異的な位相こそが「あなた」として描かれている。そのようには言えないだろうか。
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「あなた」と「わたし」の関係が端的に記された一文がある。
(D)あなたは、どうやらわたしの存在には気づいているようだが、わたしのことを見えてはいないようだ。しかし、わたしにはあなたがよく見えている。(P29『ふたつの入り口〜』)
『ふたつの入り口〜』に限らず、「わたし」と「あなた」の行動なり体験なりは、お互いが対となるような鏡像的関係として描かれる。それでも、この一文が示すように、その関係は単純に入れ替え可能なものではなく、さまざまなレベルにおいて非対称性が織り込まれている。(D)によれば、少なくとも『ふたつの入り口〜』において「あなた」は、その存在には気づいているらしい「わたし」のことを直接に見ることができない。この論理に準ずる限りにおいて、「あなた」は「わたし」に従属しているようにみえるが、そもそもの「わたし」の誕生は、あなたの主観世界のなかから拾い上げられることによって生まれたのだった(A)。この場面に限らず、「わたし」と「あなた」の主客関係は、ささいなきっかけで容易に反転させられる。この種の「いつでも反転しうる」という潜在性によって、「わたし」は「あなた」を完全に従属させることはできないし、その逆もまた然りなのだ。
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古谷小説では、頻繁に世界が「風景の反復」としての虚構化の危機に晒されている。以下はやはり『二つの入り口〜』の中の例である。
(E)そして、その光景を前にも見たような気がするのだ。それどころか、それは何度も何度も繰り返し見ているもののように思われてくる。そして、結局、いくら必死に逃れようとしても、必ずここに戻ってきてしまうではないか、ということに気づくのだ。(P21)
(F)子供たちも女性も、同じところをぐるぐるまわっている。トラップにはまってしまったのだ。(P24)
(G)あなたはそのようにして、何度もこの場所で目覚めた。何度も、今、目覚めた。何度も、きれいな水槽と水を見た。三匹のフナとたくさんのオタマジャクシを見た。あなたはそのことを思い出した。これは揺るぎようのない事実だと思った。それは恐怖だった。(P36)
これらは、おしなべて「同じ夢を何度も見させられている」というような虚無的な感覚に近い。そういえば、古谷小説における「出来事」は、どことなく全て他人事のようにみえる。みえる、と言うか、実際に、誰かの夢を自分が見ている(見させられている、視覚を共有している)という状況設定は、小説の中で、幾度となく明記されている。夢の中に閉じ込められた「わたし」が、全ての夢のレパートリーを消費し尽くそうとする時、「わたし」の現実は死を迎えることにだろう。それを予感することは、何と言う恐怖だろうか。
あらゆる運動機能を完全に失った寝たきりの人間が、それでもなお意識を失うことができずにいたならば(閉じ込め症候群)、そのただ寝ているだけの人はどのようにして、決して上書きされることのない生をやり過ごすだろうか。どのようにして、現実に自律性を供給し、内なる自己意識の中から他者(外部)を召喚するのだろうか。
古谷小説の「わたし」は、そのような難題と向き合っている、というような感触がある。「わたし」から不意にはみ出された「あなた」だけが、「わたし」を、この優雅で感傷的な反復から脱出させることができる。ただし、「わたし」と「あなた」は決して出会ってはならない、という厳格なルールのもとで。そして、「わたし」は、もはや恒常的に「わたし」であることを諦めなければならない、そのような死の危険と隣り合わせとなること引き換えに。
「気持ちいい」と「気持ちわるい」の錯覚論、メディアアートとの対話(谷口暁彦・水野勝仁・小鷹研理、2020)
はじめに

趣旨説明(小鷹)
擬似同期、「私の濃度」、似ていること(谷口)
体験翻訳、ホーム画面をフリックする異質感(水野)
平面に潜在する奥行き、時代の感受性
野蛮の効用、ジュゲムの視点、身体の物質性
ゲストトークの映像を見返してて、いろんな展開の仕方があったな、と後になって思う。水野さんが展示の感想で、他の新作を差し置いて「質量ゼロのガムテープを転がす」の体験を力説してたのは、あれがちょうどスマホ的なフリックの感じに近いことと関係してるんじゃないかな。https://t.co/X9Rf5A72Uw pic.twitter.com/YbTuO4OgnL
— 「」kenrikodaka (@kenrikodaka) December 2, 2020
はやいもので連載もとうとうあと残すところ一回となりました。連載の中心なモチーフであった「バルク」について振り返っていきます。
— MASSAGE MAGAZINE (@themassagejp) January 22, 2021
水野勝仁 連載第11回
サーフェイスから透かし見る👓👀🤳
バルクはサーフェイスからはみ出して「モノもどき」になった
https://t.co/9jlZVvYg6i
公開質問
◯ 水野
小鷹の質問
◯ 水野
◯ 谷口
◯ 水野
谷口の質問
◯ 小鷹
◯ 水野
◯ 小鷹
◯ 水野
◯ 谷口
◯ 水野
◯ 小鷹
谷口の質問
◯ 小鷹
◯ 水野
谷口の質問
◯ 水野
◯ 谷口
◯ 小鷹
小鷹の質問
◯ 水野
◯ 小鷹
◯ 水野
おわりに
『Merge Nodes』(Joe Hamilton、2016) [2 / N]
ディスプレイ内部に醸成される「過剰な現実」
はじめに、ある空間の放つ訴求力について
下の8つの画像(S1 - S8)は、Joe Hamiltonの『Merge Nodes』の約3分間の時間の中でも、個人的に、体感として最も直接的に強く"えぐられた"と感じた場面の時間推移に対応するものである。

このシーンでは、何の変哲も無い岩山の映像の一部が、パネル状に段階的に切り取られていき、その切り取られた矩形から、紫陽花の瑞々しい群集の空間の全貌が次第に露わになっていくというものである。ここでの体験のエグさは、まず何よりも、「画面の奥へと一気に空間が開けていく感じ」のリアリティーの強さにある。加えて、そのような空間性に関わる感覚に付帯するものとして、切り取られた矩形の奥へと片手を突っ込み、その隙間からのぞく乱舞する草花の感触を無造作にまさぐろうとするような、潜在的な行為に対する確かな予感がある。これらが総体として、紫陽花の空間が放つ瞬発的な訴求力を支えている。
ここで適用されているトランジッションの手法自体は映像編集としてそれほど目新しいものであるとは思えないし、そもそも、作品全体を見渡してみると、この紫陽花のシーンとほぼ同じトランジションを適用している場面は、複数見つけることができる。しかし、それら他の場面では、紫陽花の空間に対して得られたような特別な体感は生まれていないように思える(近いと感じるものはあるが)。なぜだろう。
射抜かれた平板な空間、その先に開かれる時限付きの奥行き
以下、必要に応じて、剥がされる側の岩山の空間を(空間P)、剥がれた先に露わとなる紫陽花の空間を(空間Q)と記す。

前記事で提起した概念である「主空間」(特定の時点において観測者の身体イメージが定位されることの許された、唯一の空間の座)をここでも援用すると、岩山の映像がパネル状に剥がれていく過程で、(空間P)が主空間である状態から、(空間Q)が主空間である状態へと時間的に遷移していることは間違いない。ただ、このような遷移自体は、どのような空間の組み合わせにおいても等しく生じるわけで、むしろ重要なのは、この主空間の主観的認知に関わる時間的カーブの性急さである。具体的には、問題となるこのシーンでは、こうした主空間の切り替えが、画角全体に対する(空間Q)の面積の配分増に応じて徐々に進行するというのではない、という点に注目したい。実際、まだ二、三のパネルが剥がれただけの(S1-S2の近辺)、割合としては画角全体の10%ほどを充填できているに過ぎない条件下で、しかし、そうした(空間P)に穿たれたわずかな切れ目から、(空間Q)は、自らに与えられるべき主空間に対する有資格性を、性急に主張してくるのである。端的に言って、この(空間Q)の訴求力の大きさは、面積の配分比から期待されるものとしてはあまりに不釣り合いである。
さらに重要なことには、この(空間Q)の訴求力は、画角全体を紫陽花の絵が占めるようになるとき(S6の近辺)、つまり(空間Q)が、他の空間からの邪魔を一切受けることなく主空間の座に落ち着いた段階で、むしろ消失してしまうのである。その後、紫陽花の絵が、別の空間によって再び覆い隠されていく際にも(S7-S8)、例の訴求力は依然として失われたままである。つまり、この場面における「エグさ」は、(空間P)から(空間Q)へと主空間が移譲される過渡的状態において、時限的に醸成されているものなのだ。実際、紫陽花の空間の胸のすくような奥行き感は、紫陽花が画角全体を占めるようになると消失し、一枚のポスターのような平板な印象に切り替わる。そして、この種の「平板さ」とは、当初、パネル状に剥がれていく(空間P)に対して抱いていたものと、実は、ほとんど同じものである。
以上の二つの問題系は、半ば独立しつつ、半ば絡み合っている。すなわち、部分的に穿たれた穴から控えめに露出されることが、むしろ訴求性を高めるような空間としての性質を(空間Q)が備えている、そのような理路が働いていると考えたい。どういうことか。(空間Q)には、花弁・葉・茎の無数の折り重なりがあり、その節々に、長く伸びる棒が貫通できるような(あるいは、長い棒を貫通させたくなるような)空隙が至るところに存在する。例えば、誰某が、そんな紫陽花の群集のある表面にぐっと視点を寄せるようなことがあったならば、不可避的に、その奥へと分け入りたくなる衝動、あるいはその奥に何があるかを見定めたくなる衝動に駆られるだろう。この種の衝動は、動物一般の認知的な諸原則(e.x. アフォーダンス)として規定され得るものである。そして、(空間P)の部分的な剥がれ、および(空間Q)の部分的な露出は、(この二つの事象が正しく時間的に同期して生じることで)そのような衝動を極大的に増強するのである。それは例えば、、、映像を見るものの視線が、平板化した(空間P)の一つのパネルを、まるでピッチャー用の的当ての1つのパネルを目標とするような要領で射抜き、その射抜かれた矩形の空白から、さらにその先の紫陽花の群集間の入り乱れたわずかな隙間を、多少の葉片や花弁を遠慮なく切り落としながらもするすると抜け、そのさらに向こう側にまで到達していこうとするかのようでもある。そして、これまで暗黙の前提としてきた、「(空間P)に(空間Q)が貼られる」ではなく「(空間P)が剥がれて(空間Q)が現れる」という印象が優位となる理由についても、このような連想との親和性から説明できる。
ディスプレイ空間にも物理空間にも収まらない、失われた奥行きの正体
この紫陽花の場面を適当なディスプレイ上で、全画面表示モードで再生しているとしよう。(空間P)であれ(空間Q)であれ、それらがディスプレイと視聴者の関係の中で主空間として作用している時、その空間は主観的な水準で奥行きを生み出していることになる。ところで、S1-S4の辺りで(空間Q)に感じられていた特別な奥行き感は、(空間Q)が主空間に昇格することによって(S6近辺)、むしろ失われるのだと先に指摘した。無論、S6にも素朴な意味で奥行きは存在する。この点については強調しても強調しすぎることはない。しかし、S1〜S4で感じられていた奥行き感と、S6で感じられる奥行き感は、もはや別のものである。ここで失われた奥行きとは何だろうか。
前記事の「奥行きの階層性」の議論を引き継ぐならば、現実の物理空間で感じられる奥行きと、ディスプレイ空間の中で感じられる奥行きは、相互に階層的な関係にある。すなわち、ディスプレイ空間における空間性は、奥行きのある物理空間の中で規定される平板な支持体の面に沿って展開されるものであり、この(一つ上の階層にある物理空間上の)支持体の存在を半ば「忘れる」ことによって、ディスプレイ空間は観測者にとっての主空間へと昇格する。この意味で、S6で感じられる奥行き感は、以上で示した通常の意味でのディスプレイ空間の奥行きに対応していることがわかる。としてみるならば、(空間Q)が主空間となる過程で失ったものは、(ディスプレイを主とするような)主空間としての奥行きではなく、その一つ上の階層であるところの物理空間としての奥行きなのだとは考えられないか。
実際、S1から S4の遷移において(空間P)は平板化し、まるでポスターのようなペラペラな素材であるかのような印象を与えるようになる。この「平板さ」とはまさに、主空間から締め出された映像の平面的な土台として作用する「透明な支持体」に対する質感のことであり(前記事を参照)、この想像上の「透明な支持体」が、ディスプレイの「物理的な支持体」と位相的に重なることで、「透明な支持体」の射抜かれた先に開かれた風景(空間Q)が、ディスプレイの物理的な向こう側として感覚されるのではないか。そして、(ここで少し矛盾したことを言うようだが)この「物理的な奥行き」は必ずしも、文字通り物理世界の奥行きそのものと知覚されるわけではない。ここで指摘している「物理的な奥行き」とは、あくまで、ディスプレイ空間を主空間としている住人にとっては、原理的に不可視な次元のものが現実に滲み出したものとして感覚されるものであり、そのような、現実を現実たらしめているより生々しい場所への接近は、むしろ、ディスプレイ内部では"過剰な現実"として立ち現れてくるだろう。そして、この「現実の過剰性」こそが、紫陽花のシーンのエグさの正体なのではないか。
この過剰な現実に適応してしまったディスプレイ空間の住人にとって、もともとの現実のリアリティーは、その強度において物足りないものと感覚されるかもしれない。(空間Q)が主空間の座を射止めたところで、ディスプレイの中で構成される空間性に対する奥行き感が減退したように感じられるのは、こうした事情によるものと考えられる。
「現実」が、何らかの事情で一旦「過剰な現実」として感覚された結果、再び元の「現実」に戻った時、それが「平板な現実」として感覚される、、この種の時間的進行の汎用性について考えてみたい。その種のモデルは、様々なディスプレイによる映像表現や現実の病理の理解に対して有効なのではないだろうか。(後者の問題として)例えば、物理世界において、離人症などが生じる前段として「過剰な現実」に相当する何らかのフェーズが存在するのではないか、そのような連想と対応する。
Merge Nodes from Joe Hamilton on Vimeo.
『Merge Nodes』(Joe Hamilton、2016) [1 / N]
Merge Nodes from Joe Hamilton on Vimeo.
「主空間」の座をめぐる闘争、奥行きの階層、「透明な支持体」の破れ
Joe Hamiltonの『Merge Nodes』、前々から気になっていたのだけれど、実写映像を扱ったポストインターネット系の作品体験の異質さとしては、あらためて、群を抜いているな、と思う。
実写を見るとき、観測者はその中に自らの視点を定位させようとする。没入感や空間性と呼ばれる指標は、そうした一人称体験の強度と関わる。したがって、この種の環境にも「意識の科学」にお馴染みの制約が適用される。
意識ある脳は、二つの点火を同時に経験することはできず、一時にはただ一つの意識的な「かたまり」を知覚できるに過ぎない。
(p188, 『意識と脳』スタニスラス・ドゥアンヌ)
僕自身は、その種の注意に関わる一般制約のこと「直列的認知限界」と呼んで整理している。「直列的認知限界」を空間性に関わる主観定位問題に適用するならば、 「ある瞬間において、視聴者が自らの透明な身体を全的に投影できる実写空間は高々一つである」と定式化できる。これは、直感とも合致しているように思う。一度に複数の座標系に身を置ける者など(たとえそれが想像の水準であっても)いないのである。
さて、このような、ある時点で、観測者の身体イメージが投射されている空間を、以下では「主空間」と呼ぶことにしよう(「主空間」の「主」には、<主要な>という意味と<主観的な>という二つの意味が賭けられている)。一つのディスプレイに、一つの実写映像が投影されている限り、その単一の映像は、観察者が定位しようとする空間の座を常に占有できるわけで、わざわざ主空間なる概念を持ち出す必要もないだろう。他方で、『Merge Nodes』のような、複数の実写映像が同一の画角の中で並列的にせめぎ合う様な環境においては、主空間の座をめぐって、複数の空間による(ときに)壮絶な闘争が繰り広げられることがある。以下では、一枚の具体的なイメージ(画像1)を題材にして、その闘争の経緯を追ってみたい。

Vimeoのサムネイル画像にも使われているこの印象的なカットは、仮想的な視点から地続きの屋内空間と、海越しにビルが立ち並ぶ都市空間、そして、雪解けの残る山麓の屋外空間の、三つの主要な要素から構成される(と、ここでは単純化しよう)。以下では、この一枚の画像に漂う不気味さの由来について、独自に定義した様々な心理的概念を補助線として、読み解いていきたい。まず、説明のため、それぞれの空間について、(空間O)(空間A)(空間B)の名を与えるとともに、二つの空間を分割するフレームに、便宜的に「A1」「A2」「A3」「B1」「B2」「B3」という記号を付す(画像2)。

一見して、(空間O)が絶対的な主空間を構成することについては、ゆらぎようのない主観的現実であるように思える。 そのうえで、注目したいのは、(空間O)の外界へと通じる木枠越しに見える(空間A)と(空間B)とのリアリティーの差異である。僕には(おそらく僕だけでなくほとんどの人が)、(空間A)は(空間O)と隣接しており、したがって(空間A)と(空間O)は同一の空間系に属するものと感じられる。他方で(空間B)は、(空間O)に設えられた、複数のフレーム(「B1-3」)に貼られた透明な膜上に投影された「ここではないどこかの」映像であるように見える(記号の付されていない元画像である画像1に戻って、読者自身も同じような印象を持つかどうかを確認してほしい)。この種の、主観的な水準でのみ想定される、映像の出力面あるいは投影面として機能するような「透明な膜」を、以下では統一的に「透明な支持体」と呼んで、より深く考察していきたい。
(空間A)は、主空間にとっての「ここ」を共有する空間であり、したがって(空間A)は(空間O)とともに主空間を構成している。他方で(空間B)は、主空間にとっての「ここではないどこか」の空間の投影である。つまり(空間B)は主空間ではなく、主空間に設えられた「透明な支持体」の上に出力された投影物なのである。確かに(空間A)にも(空間B)にも奥行きは感じられる。しかし、この奥行き感には質的に決定的な差異があるように思う。(空間B)における奥行きは、(空間B)を主空間とするような座標系の内部に限って(つまり(空間B)の中に入り込むことによって)感覚されるものであり、(空間O)を主空間とするような通常の空間知覚の運用においては、(空間B)の奥行きは「透明な支持体」によって切断されてしまっている。端的に言えば、(空間A)は、窓枠の奥に"現に"存在する空間であるが、(空間B)は(空間O)の中に素朴な意味で存在していないのである。実際、(空間B)の「透明な支持体」である「B1-3」の向こう側には(このカットに限って言えば)(空間A)が存在すると感覚されるだろう。以上の意味で、(空間A)と(空間B)に構成された「奥行き」は、入れ子状に階層化されているのだ。
さて、この画像1において、(空間A)が主空間を占め、他方で(空間B)は主空間から締め出されてしまっているのはなぜか。おそらく、ここでは風景の内容の差異は問題ではない。ためしに「A1-3」を全て黒塗りにしてみると(画像3)、(空間B)と(空間O)は突如、何の問題もなく同じ空間を共有しているようにみえるだろう。人によっては、(空間O)が登山者のために設えられた休憩小屋であるかのように文脈化されるかもしれない。

いずれにせよ、この簡単な実験によって、画像1における(空間B)は、(空間O)とより強い親和性を持つ(空間A)の存在によって、「直列的認知限界」の壁に弾き返される格好で、主空間の座から締め出されていたという事実を確認することができる。
それでは、(空間A)と(空間O)の親和性とは何か。画像2における右端のフレーム「A3」に注目すると、そのフレームに貼り付いていると想定される「透明な支持体」は、フレームの手前側から向こう側へと連続する地面によって、"突き破られている"ことがわかる(画像4)。

こうして「透明な支持体」であるところの「A3」の膜は消失し、「A3」の向こう側とこちら側は、相互に地続きな同一の空間を構成することになる。(空間A)が主空間の座を手繰り寄せているのは、以上のような"「透明な支持体」の破れ"の効果に由来していると考えられる。実際、「A3」の奥にはみ出した地面を黒塗りしてしまうと(画像5)、途端に、"主空間をめぐる争い"に関わる(空間A)の圧倒的な優位性はぐらついでしまうようにみえる。

この状況では、「A3」越しにみえる(空間A)が、「透明な支持体」の上に投影された映像であるかのように"あえて"錯覚することは、元画像(画像1)よりもずっと容易であるように思う。さらに、そのような見方を維持したまま(空間B)に注意を向ければ、(空間B)こそが主空間であるというような感覚を得ることもまた可能であろう(このとき、「B1-3」に存在していた「透明な支持体」は主観的な水準で突き破られる)。あるいは、(空間O)が、あらゆる現実空間から隔離された場所であり、そのような孤独な空間において、全く別空間である(空間A)と(空間B)の映像が、複数のフレームに同列的に出力されている、、そのように感じることもまた可能かもしれない(この場合、全ての平面に「透明な支持体」が貼られていることになる)。いずれにせよ重要なことは、「A3」からはみ出した地面を塗りつぶすという簡単な操作によって、(空間A)と(空間B)との主空間の座をめぐる関係に、一気に多義性が生まれることである。このような多義的空間にあっては、(空間A)も(空間B)も、明確な序列関係を持たず、主空間に昇格するポテンシャルを同列的に有しているのである。
このように、複数の"潜在的現実"が並列的に呈示され、意識の向け方によって主空間の座が時間的に切り替わる体験は、端的に言って極めて不気味である。この種の独特な緊張感は、部分的に塗りつぶしなどの操作を行う以前の元画像(画像1)がもともと潜在的に孕んでいた不気味さを、極大的に濃縮したものであると考えるべきかもしれない。つまり、元画像における不気味さとは、明確な認知手がかり(「透明な支持体」の破れ)によって主空間の座に安定的に君臨している(空間A)の影で、それでもなお、(空間A)の足元を掬おうと窺う(空間B)の静かな意思の漏れなのである。
(もう少しつづく、多分)
『address』(谷口暁彦、2018、展示「ハロー・ワールド ポスト・ヒューマン時代に向けて」より)
(写真は、すべて、小鷹がギャラリーにてiphoneで撮影したものです)




