ことばの錯覚

拮抗する複数の住人のための覚書(小鷹研理)

『Walking Through』(田中功起、2009)

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田中功起氏の「walking through」を55分間見通したうえで感じたことを短時間でメモする試み http://vimeo.com/35412409

日常というフレームを崩さないままに、その中から物理法則のレイヤーが迫り出してくる感じ。つまり、科学の実験映像で物理法則に焦点を当てるのとは違う角度から、それはやってくる。そのことで、とてつもなく異様なテンションが生まれている感じがする。

皿が投げられたら、その後の顛末は、ことごとく物理法則に従うほかない。一方で、そもそも、田中功起氏が、場面場面でどのような行動を選択するのか、この部分を包括的に説明するような法則性は全く捕まえられそうにない。

田中功起氏は、ある種トリガーを押すだけで、その後のイベントにはあまり介入しようとしない。だから、行動主体の不確実な判断と厳密な物理法則の間には、強いコントラストが存在してしかるべきなのに、私の場合、田中功起の一つ一つの行動選択にも強い「物理法則性」を感じてしまうことになった。

それは、おそらく、私が、その行動主体から「意図」というものを汲み取ることができなかったためである。行動の基準となるような一貫性がないから、その一貫性のなさに一貫性を与えようとするんだけど、これも長く見れば見るほど、何となく裏切られることになる。

あらゆるものが壊され続けたり、全体が組み合わされ統合されていったり、あるいは徐々に全体としての複雑さを増していったり、、と、このような構造が取り出せればどれほど、私の心に平安が訪れたか知らないが、実情は、そのような構造を汲み取ろうとした瞬間に、巧妙な形でキャンセルされてしまう。

「意図」という面でもう一つ言うと、何かしらのトリガーが押された時に、行為者の中に、そのプロセスに対する予測が働いていることを見てとることができる。その結果を、確認しようとする「意志」は汲み取ることができる。

しかし、その予測は結構な確率で裏切られ、別の物理法則にからめとられる。そのときの田中功起の反応は、予測の不一致について認識している風ではあるが、それに対する評価(脳科学的には予測の一致による報酬、不一致による罰)からは完全に自由となっている印象を受ける。

結果の評価・反省のシステムが欠如している主体の行動選択という矛盾。あるいは、評価を前提としない行動選択というものの異質さ。

だから、ある意味では、walking throughする田中功起に、ロボットのようなものを感じた瞬間があったことを認めつつも、でもどう考えたって、ロボットには、あんな不可解な行動はできないし。

ロボットには、(アフォーダンスの観点からは)予測可能性の高い行動選択を選んだり、あるいはそれとは逆でギャンブル性の高い行動選択を選択するようなモデルを組むことはできる。ただ、皿を割ったかと思うと、椅子の配置をただ入れ替えたり、、そんな行動の連鎖に、どんな一貫的モデルを充てれるか。

あの一連の一貫性のない行動は、「主体性」とか「意図」のようなものに還元されそうにないし、ロボットにも還元されなさそうだし、、、、おそらくは、どこかの彼岸にある(おそらくは冷徹な、私の知らない)物理法則に従っているのだろう、と、そんな新手のリアリティーが湧いてきたということ。

補足:もちろん一貫性がないからといって、ランダムではない(ランダムはロボットが最も得意とする領域)。ランダムではないから、どこぞの彼岸の物理法則が引っ張り出される必要がある。ランダムと構造の間にあるカオスの縁とも違う。そんな生成的なものじゃないし。全然違うリアリティー。

それがすごくよかった。よかったというか、、とにかく「新しいリアリティー」としか言いようがない。

 


 

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以前書いた気もするけど、Waling Throughについては、演者のその時々の決定(認知過程)が、それによって引き起こされる、種々のrigidな物理的過程と同じ地平に置かれるような不思議な感覚があって、

それは、認知過程が物理法則に属しているように思えたり(これは普通に事実だけど)、あるいは、物理過程そのものが突然ミニマルな意図を持つように思えたり、、というような相互参照的な感覚に襲われることと関係していて、

そのうえでWalking Throughが興味深いなのは、これらの基盤にあるルール(らしきもの)が、アルゴリズミックなrigidな要素に分解できない、けど「見えない一貫性」(Invisible Consistency)のようなものに支えられている感覚があって、

僕たちの主体性に関する信仰を切り崩したうえで(ミニマルな意図に分解されちゃう的な)、そのうえで、「でもやっぱり、意図って不気味でよくわからない、補足しきれないよね」っていう、二重の構造が仕掛けられているような、そういう面白さを感じている。

Everything is everythingは、どちらかというと、物理的過程のなかで生じるつまづき(意図でいうと躊躇みたいなもの)が前景化されてくるわけで、ドミノ倒しのように大体うまくいってしまう、アルゴリズミックな連鎖に焦点を当てるような作品とは一線を画している。

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『三月の5日間 リクリエーション』(チェルフィッチュ、2018)

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無意識空間を無作法に横断する複数の住人たち。それぞれの嗜好を持ち、それぞれの時間軸を内包し、それぞれの視点から世界を眺める。似ているものもあれば、相反するものもある。お互いがお互いに直接的なかたちで干渉することもなく、それぞれが勝手に、それぞれの立場から世界を眺めている。互いに重ね合わされた幽霊。彼らの中には、決して、意識の中に顕れてこない者もいる。それでもなお、その住人は、身体の震えを通して、自覚的および無自覚的な行動決定にじわりじわりと影響を与えることがある。そして、それは、(複数の住人の住まう)集合住宅の足場そのものを組み替えていく。そのようにして、複数の住人を内包した場としての<自分>を所与のものとして受け止めることが、世界の複数性を受け入れるための素地となる。僕には、そんな<自分観>があり、そして<世界観>との接続に関する見立てがある。

だから、僕には、「三月の5日間・リクリエーション」が、そんな住人たちが、意識の舞台へと(通常の検閲を経ないかたちで)無防備に顕れては退き、顕れては退きを繰り返していく、そんな<自分>の中の風景としてみえた。身体の統制が効いていないのは、彼らの身体の震えを統制している住人の声(チューニング)が、岡田利規によって意図的に弱められているからであり、、しかし、そんなフロイトのいうところの<超自我>的な役回りを、誰か特定の住人が担っているのかというと、多分そういう単純なことではなくて、、常識なり社会性が単一の人格に短絡されるようにみえるのは、複数の住人を変数として織り成される「複雑な数学」から不可避的に漏れ出してしまう、システムの副作用のようなものなのかもしれない。
 
その「複雑な数学」は、住人たちの役回りの配置を、最適性からは程遠い、その都度、与えられた条件下で、たまたま近くにあった窪みへと滑り込んでいくようなかたちで、刹那的に実行していく。「三月の5日間」の演者のほとんどは、既に誰かによって語られたことを、臆面もなく自らの発話の中に挿入していく。というか、後発の、誰かしらの発話によって、それ以前に語られていたことの解釈がドラスティックに変わる、というような、(あの黒澤明羅生門」で演出されるような)人文学的なカタルシスは完全に放棄されている。だから、彼らは、みながみな、筋書きを確定させるにあたって、一人くらい欠けても、何も困らないような者たちばかりだということになる。彼らは、何かを語ることによって、何も新しいことを語れないことを身を持って示す。何かを語ることによって、自身の固有名を積極的に放棄している、とさえいえる。これは、控えめにいっても「複雑な数学」の(しかし、あらかじめシステムの中に織り込まれている)失敗ではないか。
 
だから、僕にとっては、後半、四方から、(それまで散々、重複を含む話を、異なる場所で繰り広げて来た)4人がダラシなく前方に集ってくるシーンが、とにかくヤバかった。彼らは、そこで、自分が、他の3人と交換可能な住人であるという<システムの失敗>に立ち会うこととなる。僕は、そこで、何か(誰かの発話に他の誰かが割って入るような)干渉であったり、(2人の発話が揃ってしまうような)調和のような局面が起こることを少し想像した。しかし、彼らは、自らの存在意義が瓦解するような状況に直面してもなお、少しも動揺してみせることなく、システムの厳格なルール(意識の直列性)に従い、自分のターンが来るまでは発話を慎み、そして、自分のターンが来たときには、誰かがすでに発話した内容を、やはり臆面もなく繰り返してみせた。そして、その潔さに対して、僕は、ただ「盲目」であること以上の積極的な「複数性の倫理」のようなものを感じ取った。