ことばの錯覚

拮抗する複数の住人のための覚書(小鷹研理)

『jump from』(谷口暁彦、2017、展示「超・いま・ここ」より)

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ようやく落ち着けたので、昨日の谷口さんの展示のこと。『jump from』の体験が突出して強烈だった。あそこで試みられていたのは、「現在」と「過去」の往復というよりも、「自分」と「(自分)」(←括弧つきの自分)の往復だった、というほうが、僕としてはしっくりくる。
— kenrikodaka (@kenrikodaka) 2017年4月19日

画面が切り替わる瞬間、自分自身を含む所与の空間が切り取られて、身体ごとモニタの中に「嵌め込まれる」ような感覚があって、なんというか、それがすごく暴力的(david lynch的なカットの切り替わりとでもいうような)な質感の伴うものだった。
— kenrikodaka (@kenrikodaka) 2017年4月19日

切り替わった画面の中で時間が「ヌメッ」と遅く流れる(これが意図的かは聞くのを忘れた)ことで、なんだか(マリオも自分も)身体がつっかっかてしまう感じがあって、あのときの「嵌め込まれる」感は、その感覚的な不協和を解消しようとする一つの認知的な効果だったのではないか。
— kenrikodaka (@kenrikodaka) 2017年4月19日

つまり、「身体ごとモニタの中に入っていく仮想運動」を想定したうえで、そうした仮想運動に伴う時間遅延や物理的干渉の効果として「ヌメッと」感が発生したのだという整合的な物語を、(少なくとも僕の)無意識が創作していたのではないか、と。
— kenrikodaka (@kenrikodaka) 2017年4月19日

当然、このような仮想運動と幽体離脱は近いところにあるはずで、特にこの作品で重要だと思ったのは、体験者は、画面の切り替わりのタイミングを十分に予測することができない(予感だけがある)という点で、これは、幽体離脱のほとんどの体験者が、それを意図的に制御できないのと似ている。
— kenrikodaka (@kenrikodaka) 2017年4月19日

あるいは、マリオの動きを止めて、全神経を集中させて、来たるべき仮想運動の瞬間を捕まえようとしても、その瞬間は永遠に訪れない。それは、目のゴミを捕まえようとするとかえって逃げてしまう感じと似ているし、まどろんだ意識の状態でしか幽体離脱が起きないのとも似ている。
— kenrikodaka (@kenrikodaka) 2017年4月19日

この作品のさらに深遠なところは、そもそも通常の操作においても、プレイヤーであるところの「自分」は、括弧つきの自分「(自分)」のイメージをマリオに託しているわけで、だから、自分が画面に嵌め込まれた際に目に入ってくるマリオは、「((自分))」として示されるような対象なわけだ。
— kenrikodaka (@kenrikodaka) 2017年4月19日

別の意味では、プレイヤーは、「画面に嵌め込まれる」というアクロバティックな仮想運動を通して、「マリオであるとはどういうことか」という問題系の深いところに肉薄することに、成功していたのかもしれない。「あのとき、自分はマリオであった」というような事後的な回想であったにせよ。
— kenrikodaka (@kenrikodaka) 2017年4月19日

『jump from』、あまりやりすぎて内部構造が見えすぎてしまうよりは、ドキドキした宙づりの状態でやめといたほうがいいと思って、実は、あまり長い時間プレイしてない。その判断は半分正しかったと思いつつも。もっかいやりたい。
— kenrikodaka (@kenrikodaka) 2017年4月19日