ことばの錯覚

拮抗する複数の住人のための覚書(小鷹研理)

『インタビュー中に跳ぶ奴』(ジャルジャル、2018)

試合で重要なヘディングゴールを決めたと思われるサッカー選手(福徳)と、その選手からコメントを引き出そうとするインタビュア(後藤)、スポーツの試合終了後の典型的なヒーローインタビューのやりとり。
 
後藤「素晴らしいゴールでしたね」
福徳「ありがとうございます」
後藤「狙ってたんでしょうか」
福徳「ここにボールが来てくれたらいいなってとこにちょうど来たんでヘディングでバンと決めましたね」
後藤「2試合連続ゴールということですけど」
福徳「そうですね、、まぁ、あの、2試合ともヘディングで、、
・・・
・・・
 
 
福徳、ヘディングの解説をするのに合わせて、少し抑えめのジャンプで実際にヘディングの仕草を示す。当初、助走運動的なフットワークであったのが、徐々に、ホッピングのように上下の動きが大きくなり、やがて(通常のインタビューの光景としては明らかに不自然な)機械的な跳躍の繰り返しへと変わっていく。
 
その状態で、しばらくインタビューは進行していくが、ある時点で、(福徳の声を拾う)後藤のマイクを持つ手が福徳のジャンプの上下の動きと同期するようになり、次のターンでは、後藤も福徳と同じように機械的なジャンプを繰り返すようになる。
 

 
何かが<はがれた>という感じ。
並列的なAとBというモードがあって、AからBに切り替わったというよりは、(A)という状態であったものから、括弧が剥がされてAが露出された、という方が近い。
 
しかし、ここで露出された真の姿なるAは、例えば、トラウマ的な起源を探り当てたような「自分探し」的なカタルシスから程遠い、ただ一定のリズムで跳びはねているだけの、極めてニュートラルな何かであり、だから、どちらかと言えば「括弧を剥いだら中身は何もなかった」という方が体感に近い。
 
あるいは、括弧の中には、正規文法でいうところのワイルドカードにあたる、アスタリスク*(=何者とも入れ替え可能であるがゆえに何者でもない記号)が入っていた、というような表現も可能だと思う。
 
この観点から、2人の間にゆるやかな同期性がみられる、という点がとても興味深い。実際、2人のジャンプの同期しているあり様は、機械的でありながら、どこか、生命的なるものの兆しを感じさせるものであるように思う(アスタリスク性は、それを可塑性と読み替えれば、生命的な自己組織化をつくりだす基底でもあるという点で、記号的なるものと生命的なるものの接点に位置付けられる何かでもある)。
 
だから、カッコから剥がれて漏れ出してきたものは、実のところ、あの生命的知性の原基として名高いドロっとした粘菌だったのだと、そして、福徳から脱出した粘菌が、後藤の中にいる粘菌を引きずり出したのだと、そのように2人を眺めてみると、また味わい深さが増してくる。
 

 
さて、ここで露出された匿名体には、同期性とは別に語られるべき重要な側面がある。それは、ゆるやかに同期しながらホッピングを繰り返す2人が、定期的に、自分の職業に関わる何かを(やはり機械的に)口に出す点にある。
 
後藤「インタビュー」
福徳「サッカー選手」
後藤「インタビュー」
福徳「ヘディング、プディング」
後藤「毎日インタビュー」
福徳「ヘディング、プディング」
(福徳、左へ見切れる)
後藤「明日もインタビュー」
(後藤、右へ見切れる)
 
 匿名的な状態にあって、自分の職業の名前(代表的なプロファイル)を口に出す、というのがなんとも示唆的であるように感じる。僕には、これが、インターネット上で形成されるパーソナリティーの手続き的世界観に肉薄している何かであるようにみえる。つまり、2人は、まさにあの(ホッピングへと展開する)局面において、コンテンツ画面から、個々のプロファイルを集約する場所である「設定モード」に移行したのだと、こう考えることはできないか。
 
パーソナリティーは、コンテンツ上の各種の振る舞いの中に浮上していくものであるという点を踏まえると、「設定モード」そのものは、いくら、その中に詳細な情報が書き込まれていようが、パーソナリティーを持たない(というか持てない)。「設定モード」は、やはり、「何者とも入れ替え可能」であるところの位相である。
 
だから、この光景は、後藤アカウントと福徳アカウントを管理する何者かが、コンテンツの中に突如介入し、設定が変えられようとしている、まさにその現場であると想像すると、なぜ、僕たちが、あの光景に対して、少なからずの寒々しさを感じてしまうのかがわかる気がするのだ。