ことばの錯覚

拮抗する複数の住人のための覚書(小鷹研理)

『変な奴』(ジャルジャル、2009)

コミュニケーションの自明性を抉られる体験といえば、、ジャルジャルのいくつかのコント(歌手志望でレコード会社に押しかけて歌わないやつとか)は、日常と地続きのところで『<あえて>(=制度化された虚構)の外部』を召喚している点で、やっぱり秀逸だなぁと思う。
— kenrikodaka (@kenrikodaka) 2015年9月8日

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(備忘)このコントの秀逸な(かつ不気味な)点は、「歌わせてください」と言いながら決して歌おうとしない後藤の態度が完全なる「デフォルトモード」にあること。構造的には、ボケ(虚構)の中に、<コントの外部>(超現実)が埋め込まれている。 https://t.co/UdoTMM8XZt
— kenrikodaka (@kenrikodaka) 2017年1月30日


このコントを見ていて連想するのは、昔の「いいとも」で一般客が乱入してきたときのような放送事故的な状況。テレビの中に、テレビの外部が突如侵入してきたときの不気味な感じ。どちらも、暴力的であるというよりは、極度に「普通」な感じで(日常を装って)内部に侵入してくる点で共通してる。
— kenrikodaka (@kenrikodaka) 2017年1月31日

加えて、もう一つ秀逸な点は、最後、福徳が退場して後藤が一人で残り、後藤が『あんな奴に聴かせる歌はない、ここはレコード会社、誰かに届け、僕の歌声』と叫んだ後、再びデフォルトモードになるところ。そのボケは、ツッコミには決して届かない。送り先不明で発信される虚構。コントの外部。
— kenrikodaka (@kenrikodaka) 2017年1月31日

その場面で暗転してコントは終わるわけだけど、そこでもしも暗転しなかったら、、と想像してみるのは面白い。なぜなら、ツッコミのいない、何もに演じようとしない後藤だけが残るその舞台は、完全なる後藤のプライベート空間になってしまうわけだから。
kenrikodaka (@kenrikodaka)  2017年1月31日

 


 

このコントで、歌う気が全く無いようにみえる後藤は、しかし、福徳に早く歌えと迫られるなかで、数度首を振って「今度こそ」という仕種をしてるのがかえって不気味。ツッコミの規範に理解を示しながら、次の瞬間には、その真反対に瞬間移動している。 https://t.co/UdoTMM8XZt
— kenrikodaka (@kenrikodaka) 2017年4月10日

この両義性が一番顕著に出ているのがこのコント。面接の場で自分の名前を「おきんたまでかお」と言うが、その点以外は、全くの模範的な態度。その後の電話では、自らの過ちを認め、涙を流して謝罪。しかし、再面接で、また同じことが繰り返される。https://t.co/LiIIMkIgCa
— kenrikodaka (@kenrikodaka) 2017年4月10日

 

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後藤の魅力は、このような相反する(ようにみえる)複数の人格が、「多重人格」的に完全に切り離されているのではなく、複数の人格が一つの全体性の中に不仲なかたちで共存しているような、「統合的人格」と「多重人格」の中間的な位相の危うい人格モデルを、地で演じるところにあると思う。
— kenrikodaka (@kenrikodaka) 2017年4月10日

いや、ちがうな。規範レベルでは、明らかに相性の悪い二つの人格が、あたかも、お互いが何の矛盾も無いかのように、一つの人格の中で共存しているようにみえる点が不気味なんだ。
— kenrikodaka (@kenrikodaka) 2017年4月10日